大切なものと、幸せについて
最近、子どもがかわいくてしょうがない。
道を歩いてるときに、ベビーカーを押してるお母さんや、その辺をキャッキャ駆け回っている子どもを見かけると、ついにっこりしてしまう自分に氣付いたりするわけだ。
贔屓目に言っても危ない。
40を超えたおっさんが、人様の連れている子どもを見てニヤニヤしているわけで、そりゃまあ、それでだいぶ危険ではある。ま、それはさておき。
と言っても、別に結婚しましたとか、子どもが生まれましたとか、そういう環境や心境の変化があったわけではない。ただ、最近はそういうモードなんだよねというだけの話である。
で、ふと思うのは、幸せとは、実は「どれだけ自分以上に大切だと想えるものがあるか」で決まるんじゃないか、ということだったのだ。
○自分以上に大切だと想えるもの
極端なことを言う。
あなたがもし、この世の中に自分以外、何も大切なものがなかったとしたら、どう感じるだろうか。自分だけを大切にして生きていくだろうか。
自分しか大切なものがなかったとしたら、自分以外はどうなっても良いし、どう扱っても良い。傷つこうと、壊れようと、命を失おうと、どうだっていい。なぜなら、自分は生きているし、大切だから。
でも、この状態は(少なくともぼくにとっては)幸せとは言い難い。
ぼくらには多くの場合、自分と同じくらいか、あるいは自分よりも大切だと想えるものがある。少なくとも、ぼくにはある、と言える。そのためにならば、何でもできる、あるいは何でもしたいと思えるような何かが存在する。
そういう大切なものの存在が、僕の幸せを生み出しているように、最近は感じるわけだ。
自分しか大切なものが無いとすれば、自分にとって大切な領域は、自分の回り、せいぜい半径5メートル程度に留まるだろう。
でも、例えば日本国中に友だちがいて、その友だちが自分と同じくらい、あるいは自分よりも大切だと思うなら、日本中が大切な領域になる。それが世界に広がれば、当然世界中にエリアが広がるはずだ。
子どもたちは、ぼくらにとって大切なこの世界の未来を担う存在である。大切に扱わない理由がないし、見かければついにっこりしてしまうのも自然じゃないか、と思っている。
もちろん、単純に子どもがかわいく見え始めた、というのもある。トシのせいか。
○大切なものがあることは、幸せばかりじゃないけれど
一方で。ぼくにとって大切なものに、何もしてあげられないんだよねと無力さを感じることもまたある。
何か力になってあげたいし、出来ることはしたいと思っているけれど、相手が望んでいなかったり、ぼくの力が足りなかったり、何らかの理由で何もできないなと思うことがある。
残念だけれど、そういう時は祈るくらいのことしかできない。ぼくの大切な存在が幸せであるように、さらに良くなりますようにと思うことしかできないこともある。
このように、自分にとって大切なものが増えることで、切なさや哀しさが増えることももちろんある。自分の無力さに泣きたくなったり、呆れ果ててしまうことだってある。
それでもなお。ぼくらにとっては、大切なものを大切にして生きていくことこそが幸せの近道(というか、始まり)なんじゃないかとぼくは思っている。
大切なものを大切にして生きるということは、日々を丁寧に、きちんと向き合って生きるということにも繋がっていく。
使い捨てやインスタントなものに囲まれていれば、楽だし簡単だし、イージーではあるけれど、そこに生まれる幸せ感は薄い(とぼくは思っている)。
大切なものを大切にして生きれば、その分、辛いこともある。悲しいこともある。大切なものを失って傷つくこともあれば、大切なもののために何もできない自分を責めることもあるだろう。
実際のところ、どちらを選んだっていい。傷つかなくて済む、楽で簡単でイージーな生き方だって、それはそれで悪くない。大切なものを作らず、自分の身一つで生きていくのも、処世術としてはアリだ。
ただまあ、ぼくはそうはしたくないなあと思っている。
赤子がいたらベロベロバーの一つも見せてあげたいし、子どもたちが自分の感覚・感性を閉じずに大人になっていける環境を提供したい。母なる大地、地球にはできるだけ負担をかけたくないし、大切な人たちにはできれば笑顔でいてほしい。
そういう自分で生きていく方が、ぼく自身は幸せだと思う。
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