「なぜ」の代わりに

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「なぜ」、「なんで」、「どうして」・・・。

 

という問いは、必要な場合もあるのだけれど、時と場合によってはあまりうまく機能しない、と感じている。

 

例えば、やる氣が起きないな~と悩んでいる人に対して

 

「なんでやる氣が起きないの?」

と聞いても、たぶん言葉に詰まる。

 

「それがわかんないから困ってるんじゃん」

となるケースが多い。

 

特にネガティブ(と、一般的に思われていること)方面においては、「なぜ?」と聞きに行くと、ぐるぐるのループにはまってしまうケースがけっこうある。

 

「なんで、やるって言ったのにやらないの?」

「どうして宿題やらないの?」

「なんで、何度も遅刻するの?」

「どうして、あの人のことそんなに毛嫌いするの?」

「ねえどうして、すごくすごく好きなこと、ただ伝えたいだけなのに、ルルルルル、涙が出ちゃうんだろう?」

 

うん。ダウトが一つ混じってるのは氣にしないで先に進もう。

 

「なんで」、「どうして」と聞きに行くと、当たり前なのだけれど「理由」を探しに行く。ぼくの考えでは「理由」は過去にあることが多い。

 

やろうと思ったことができない理由も、宿題をやらない理由も、遅刻してしまう理由も、アイツが大嫌いな理由も、すごくすごく好きなことをただ伝えたいのに涙が出ちゃう理由も、過去にある。

 

やろうと思ったんだけど、テキストを開いたら眠たくなってやる氣が失せて以来、やる氣が出ない、とか。

 

一度遅刻してしまったら、何となく時間通りに行くのがあほらしくなってしまった、とか。

 

アイツが過去に言ったあの一言が未だに許せなくて、自分でももう忘れたいのに忘れられずに未だに顔を合わせるたびにチリっとくる、とか。

 

色々ある。そして、ぼくに言わせればそりゃ仕方がない。だって、そういうことがあったのは(その当人にとっては)事実だろうし、その過去は変えられない。

 

だとしたら。ぼくは提唱したい。

 

「どうだったら良いか、嬉しいか、幸せか?」と問うのである。

相手に対してでも良い。自問自答にも、結構使えるんじゃないかと思う。

 

やると言ったことをやらない人に対して、なぜやらないのかを問い詰めるのではなく、「どうだったら嬉しい?」と問う。

 

これは確かに、「はい!もうやりたくないっす!その方が幸せっす!」という回答が返ってくる可能性もある、諸刃の剣ではある。ただ、相手の幸せには繋がりやすいし、事が前に進む。

 

この問いは、矢印が現在と未来に向かっているのがポイントだ、とぼくは思っている。

 

いま、どうしたいか。どうだったら幸せか。この先、どうしていきたいか?を問うのである。

 

そうすると、人によっては前向きに撤退することを決断できるかもしれないし、あるいは、自主的に再始動を選べるかもしれない。

 

我ながらむちゃくちゃだとは思うが、宿題をやりたくなければ、やらなきゃいい、というのがぼくの基本スタンスである。それが幸せならば。ただ、宿題をやらないことで、将来起こるであろう厄介ごとについては、知っといた方が良いよね、とは思う。

 

だから、知ってる限りでお伝えしたりする。

 

ぼくには子どもがいないけれど、いたらたぶん、そう育てるんじゃないかな。「宿題やらんでいい」なんて言ったら、奥さん激怒しそうだけど。

 

遅刻も、誰かが嫌いなことも同じである。遅刻し続けるのが本人にとって本当にハッピーならば、それはそれで構うまい。誰かを嫌いで居続けるのだって、随分無駄なエネルギーは使いそうだと思うけれど、氣持ちとしてはわからなくもない。

 

ただ、それがあなた(自問自答の場合は自分)にとって、本当に幸せで、嬉しいことなんですか?という問いを立てる。たぶん、答えはノーのことも多いんじゃないかな。

 

すごくすごく好きなことをただ伝えたいだけなのに、涙が出ちゃうのは、その時点で幸せだから、きっともう何かを問う必要がない。末永くお幸せにとだけ言っておこう。それはそれは、夢のような瞬間だろう。

 

まさに「Dreams Come True」である(などと)。

 

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