感情は味わい

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元来、感情にポジティブもネガティブも、プラスもマイナスもない。

すべては「空」である、と般若心経では説いている。

 

とは言え。人間をやってると、ネガティブな感情が生まれてきて、あーこういうのやだな、こういうの好きじゃないのになと思うことってのは多々ある。

 

そんなとき、ついつい蓋をしたくなる。なかったことにしたくなる。

無視もしたくなるし、氣付かなかったふりもしたくなる。

 

あるいは、その感情にどっぷり浸かってしまうこともある。

そこからぬけだせなくなることもある。身動きがとれなくなることもある。

 

でも。すべてが「空」だとするならば。

その感情全てにポジティブやネガティブ、プラスやマイナスという色を付けているのがぼくら自身だとするならば。

 

こんなにみょうちきりんなことはない、と氣付くはずである。

 

ぼくらは、良いも悪いもない出来事を見て喜んだり怒ったり、笑ったり泣いたりして、言わばこの世を遊んでいる。

全ては味わいであり、楽しみですらある。

 

怒っているとするならば、怒りたい。

悲しんでいるとするならば、悲しみたいのである。

 

いや、ものすごくきっついことを書いている自覚はあるし、読む人によっては傷付くかもしれない。でも、たぶん世の中はそういうことなのだ。

 

裏を返せば、ポジティブでなければならない、ポジティブ万歳、ってのもぼくは採用しない。この世の中には「出来事」があるだけで「ポジティブ」も「ネガティブ」もないからだ。

 

ただ、自分がその出来事を見て嬉しいか、楽しいか、腹立つか、悲しいか、だけのことだ。

 

ぼくがやりたいなと思っているのは、その感情を味わって手放す、そのスピードを上げることだ。

 

究極を言えば、「感情」も電気信号である。何かを見て、脳がどう判断するか(たぶん偏桃体が「快」か「不快」か、何か感情をラベリングするんじゃないかな)、でしかない。だから、本当は長くても6秒くらいで消えるらしいのだ。

 

では、なぜその感情という電気信号がぼくらを悩ませるのか。

ぼくらがそこにフォーカスするから、である。

 

牛が一度胃に入れた牧草をまた口に戻して食べるように、ぼくらは感情を反芻する。そして、その想いを強めていく。だから、感情が長続きしていく。

 

それでもいい。いや、それこそが人間らしい、とすら言えるかもしれない。

 

人間は感情の生き物だ。

情熱はとんでもない能力や馬力を発揮させるし、情熱を載せた言葉は人を動かす。これはAIにはできないことだろう。

 

だからこそ、上手にフォーカスする必要があるんだろう。

 

怒りや悲しみは6秒間、きちんと味わい切って、次に向かう。

 

「こういうのがイヤなら、こうしよう」とか

「こうされるのが嫌いなら、この人とは距離を置こう」とか

「こういう悲しいことが二度と起こらないようにしよう」とか。

 

怒りや悲しみに浸かったままでいるのが好みならば、それでも良いのだけれど、それを続けるにはあまりに人生は短い。

 

感情は6秒で消えるものだと思っておけば、怒りや悲しみにフォーカスして長引かせることもないし、やりたいと思ったこと(=情熱)が続かなくてションボリすることもない。

 

そう、フォーカスしなければ消えていくんだから。

 

やりたい!という情熱にフォーカスしていないから、火が消えてしまうだけだ。

 

それで、やりたいことが続けられない自分を責めたり、こんなんじゃダメだと思うのは、もったいないぜベイベー、と言いたいのだ。

 

自分の氣分が悪くなるような感情にはフォーカスせず、6秒間味わい切って次へ行く。ときには、人に頼ることもあるかもしれない。それで良い、とぼくは思っている。

 

そして、自分の氣分が良いこと、やりたいこと、生まれた情熱の種火にフォーカスして、空気を送り込んで、大きな火に育てていく。

 

ぼくはそれをしていきたい。

その火が消えかけたら、再び点火すればいいだけのことだ。

 

すべては「出来事」でしかない。

受け止めて、次へ進もう。人生は短い。

 

そう、昨日帰りのスーパーで買ったシュークリームの、クリームの少なさに激怒しているヒマなんてないのである。

 

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