ぼくにとっての「幸福論」
「365歩のマーチ」をご存じだろうか。水前寺清子(チータ)さんの不朽の名曲である。
それにしても、当ブログほど「365歩のマーチ」をテーマに記事を書いているブログはないのではないか。2016年に開設してから、約2年で(確か)2~3回書いている。どれだけチータ(リスペクト)が好きなのかとも思うけれど、まあ良い。
さて。
「幸せは歩いてこない」のである。確かに。
「だから歩いていくんだね」。うん、そうだね。
「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる」。うんまあ、そういうこともある。
ぼくが言いたいのは、実は「歩いて行った先に幸せがあるんじゃないぜ」ということである。
チータ(正確には作詞の星野哲郎先生)は、「歩いて行った先に幸せがある」とは、実は一言も書いていない。
「あなたのつけた足跡にゃ きれいな花が咲くでしょう」とは言っている。
オイオイオイ、歩いて行った先に幸せがないのなら、どこにあるんだい磯野君、ときっとあなたは急速にアナゴさん化しながら尋ねてくるだろう。
ぼくは答える。
歩いている過程こそが幸せなんだよ。
〇幸せは「歩き続ける」中にこそある
皆さんにとって、幸せの中身は違っているはずだ。違っていて構わないし、一緒だったら逆につまらない。だけれども、「その状態になった」ことが、本当に幸せなんではない。その状態に向かって歩いていたり、その状態のまま歩き続けられることこそが幸せなんである。
そう、「一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる」こともある。決して世の中、楽しいことばかりでも甘いことばかりでもない。良いことばかりではないけれど、悪いことばかりでもない。うん、このあたりは少しブルーハーツ感もあるな。
「これが幸せな状態!」とかっちり定義してしまうと、そこからそれると「不幸せ」になる。そして、その状態を達成してしまったら、そこからさらに幸せになることはない。手にした幸せを失う不安に襲われてしまうこともあるかもしれない。
でもね、ぼくらはいまここ、一瞬にして幸せだと思うことすらできるのである。
いまこうして、息をして、歩けている。一日一歩、三日で三歩、自分の理想や幸福に向かって歩みを進められている。このことこそ、ぼくは幸せだと思う。
たとえ、お金がなかろうと、好きな子に振られようと、寝違えて首が痛かろうと、嫁と姑が冷戦状態にあろうと、「自分が理想とする状態を描き、そこに進めている」と実感ができたら、そこにもう幸せはあるとぼくは思っている。
そこに幸せを見出せるからこそ、ぼくらは歩いて行ける。歩いた先にしか幸せがないのだとしたら、過程は不幸せという前提になってしまう。いや、そんなはずはない。
ぼくはいま、超絶幸せを感じている。別に億万長者でもないし、彼女もいないし、ないもの、理想とは違う状態を挙げればきりがないけれど、でも、ぼくはちゃんと理想に向かって進んでいるという実感を持っている。
理想を描くことは、誰にでもできる。理想の翼は、誰にも奪うことはできない。
あなたがもし、幸せを感じられていないのなら、いまあるもの、持っているものをもう一度見返して、自分の理想をもう一度描き直してみたら良い。どちらかだけだと、バランスが悪い。
いまを見て、理想を描く。ぜひ。
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