「人は鏡」の真意について


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「人は鏡」というフレーズがある。言わんとすることはわかる。でも、その鏡は必ずしも、いまの等身大の自分が映る鏡とは限らないんじゃないかな、と思っている。

 

たまに、自分が嫌いな人、嫌な言動をする人と会ったときに「自分にも、そういう嫌な部分があるからそう思うんだ」と言う人がいる。もちろん、その見方が好きならば良いけれど、ぼくは自分の中にその「嫌な部分」があるというより「ぼくはそれが嫌いなんだな」と捉えている。自分の中にあるかどうかは、まあどっちでもいい。自分の中にあったとしても、嫌いなら出さなければ良いだけの話だ。

 

例えば。ぼくは自分の話ばっかりする人は苦手だし、自分のことを大きく見せようとする人は苦手だ。自慢ばかりする人もあまりお友だちになりたくないし、一方で、自己否定や自分を卑下する話ばかりの人もちょっと得意ではない。

 

こういったもろもろは、ぼくの中に確実に「ある」。油断すると自分の話ばかりするし、つい「盛る」こともある。自慢をしてしまう反面、それは実は自信のなさからくるものだったりもする。でも、それはそれ。それを対外的に出すのが嫌いなら、出さないようにすればいいだけの話だ。そういうものを簡単にナシにできるわけでもないし、ナシにする意味もない、とぼくは思っている。

 

○「人は鏡」の話に戻ろう

ぼくが思う「人は鏡」というフレーズの一つめの意味は、人からの方が自分のことが(ある意味では)正確に捉えられるということだ。ぼくらは、人の間で生きている。ということは、自分が自分を「こういう人」と定義する以上に、人から自分が「こういう人」と定義される機会の方が多い。あなたがロビンソン・クルーソー的に無人島で生活していたり、スター・ウォーズのマスター・ヨーダのように、僻地に一人でひっそり暮らしているのでなければ。

 

よくよく考えてみてほしい。あなたは、あなた一人しかいない。でも、他人はたくさんいる。あなたがいくら「自分はAなんす!」と言っても、複数の人から「Bに見えるけど」と言われたら。それは、Bである可能性が高い。

 

別に多数決が必ず正しい!なんて言うつもりはさらさらないし、自分の氣持ちや感情はその人にしかわからない、という大前提はある。でも、一人の人間が見て思うことよりも、複数の人が見て思うことの方が、確からしいと思わないか?

 

だから、自分がいくら自分のことを「アタマ悪くて」、「チビだし」、「スタイル悪いし」、「どんくさいし」と思っていたとしても、他の人から「物事をじっくり考える」、「小柄でカワイイ」、「丸みがあって素敵」、「いつも落ち着いてる」と思われているなら、そっちの方が真実に近い、とぼくは考える。もちろん、100%受け取れるか否かは置いとくとして。

 

前々からぼくがインターネットの片隅(このブログのこと)で声高に叫んでいるように、自分のことを自分だけの視点で完全に理解するなんて不可能である。世の中に絶対などない、と言うけれど、ここは絶対と言っても良い。自分一人で、自分のことが全て解析できるはずがない。だから、人からのフィードバックを受けて、自分をさらに知る方が、確度が高い。

 

だから、「人は鏡」なんである。

 

○素のままで話すこと

ぼくらは、自分のことを100%わかっているつもりで、実はわかっていない可能性が高い。だからこそ、人とコミュニケーションをとって、自分を知る方が早いし確実だ。ただ、これを日常生活の中で取り組むのはまあまあしんどい、とぼくは思う。

 

ぼくらはどうしても会社や家庭での「役割」や「社会的な地位」、「いままで培ってきた人間関係」に囚われて、「いまココにいる自分」を素のままに出すことは難しいんじゃないか、と感じている。

 

ぼくがいま力を入れている「楽読リターンスクール」は、半年間かけて、仲間と共に本当の自分自身を知りに行くプログラムである。あなたがもし、自分のことが嫌いだったり、自分のことがよくわからなかったり、生まれてきた意味を知りたいと思っているのなら、体験会だけでも来てみたらと思う。

 

1回の体験でパッカーンと全てわかるとは言えないけれど、少なくとも糸口は見つけられるんじゃないかなと思っている。



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