「自分のため」と「相手のため」の一考察

 


全然知らない方のブログなのだが、とても面白かったのでシェアしたい。

 

sinmaiooya-ol.hatenablog.com

 

置かれたシチュエーションとその説明の仕方、言葉の選び方(ワードセンス)、文章構成、どれをとっても「素晴らしい」の一言。たとえ、これが真っ赤な嘘っぱちだったとしても(たぶん、そんなことはないんだけど)、ぼくは喜んで騙される。

 

もはや文学。そう言い切ってもよろしい。

 

このブログの中で、筆者は授業の課題として「ラブレターを書く」ことを課せられる。そして、その条件に困惑したり、自分の恋愛遍歴などを顧みたりして、色々考える。

 

その辺の感情の機微も素晴らしいので、詳しくは読んでほしいのだけれど、ぼくが響いたのは、課題を返却されたとき、先生からの講評に書いてあった一節であった。

 

私の個人的な考えになりますが、ラブレターには
自分の為のラブレターと相手の為のラブレターの二種類があると思っています。

 

この一節に、ぼくはボエーと響いてしまったので、このポイントを重点的にご紹介していきたい。

 

〇「自分のため」と「相手のため」

ここでは「ラブレター」について書かれているけれど、ぼくらの行動の多くは「自分のための行動」と「相手のための行動」にわけられるんじゃないかな、と思っている。

 

どちらがいいとか、どちらがどうということが言いたいわけじゃない。ただ、そうなんじゃないかと思っただけのことだ。

 

例に挙がっているからラブレターで考えてみる。先生がどう考えてこう書いたのかはわからないけれど、ぼくの解釈で書いていく。

 

「自分のためのラブレター」は、自分を満たすために書かれたものだ。自分の欲求や淋しさ、自己愛の表れとしてのラブレター。だから、矢印は自分に向いている。

 

「相手のためのラブレター」は、相手のことを想って、相手のために書かれたもの。ラブレターである以上、おそらくどちらも相手に自分の想いを伝えるために書かれているのだけれど、この根本がどっちかで、おそらくそのありようは大きく異なる。

 

「自分のためのラブレター」は、相手から自分を愛してほしいがために書かれる。一方、「相手のためのラブレター」は、自分がいかに相手を大切に想い、愛しているかを表現するために書かれる。

 

しつこいようだけれど、どちらが良い、悪いではない。

 

〇自分を満たすために、相手に何かする

いくら相手のためにと想ってとった行動でも、そこに見返りみたいなものを求めると、「自分のための行動」になる。ただ、相手に対して自分が何かしたい、という想いから生まれる行動は「相手のための行動」になるのではないか。

 

ぼくらは無意識のうちに、「これをこうしたら、相手からこう思われる(思ってもらえる)のではないか」と思って行動を起こすことが多いように思う。少なくとも、ぼくはそうだ。特に、相手が自分にとって大切だったり、関係が深かったり、影響が大きい相手ならばなおのこと。

 

その行動は決して否定されるべきものではないし、そういう動機もあっていい。でも、ぼくは自分とつながり、自分を100%満たすためにも、自分がどうしたいのか?を第一優先にして行動していきたいなと思っている。

 

ぼくは、ついつい相手からのフィードバックを意識したり、影響を感じて行動することが多いタイプだ。

 

それを人は「協調性」とか「氣配り」と呼んでくれるけれど、場合によっては「ぼくがこれだけやってあげているのに(何も見返りをくれない)」になる危険性をはらんでいる。

 

でも、実はそこには「そもそも、ぼくがそうしたい」が根強くあるのも感じる。

 

例えば、彼女が自分の部屋に来る前には片づけをして、掃除をして、洗濯物は取り込んで、エロ本は見えないところに隠すのは、もちろん彼女に良く思われたいのもあるけれど、「彼女に快適に過ごしてほしい」という氣持ちの表れでもある。

 

と考えると、決して「自分のために行動すること」イコール「自分勝手」ではないということになる。

 

だいぶわけがわからなくなってきたけれど、ともかくも、ぼくは自分の氣分が良い状態をキープして生きていきたい、と思っている。

 

 

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