「正しい」ことについて


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みんな薄々氣付き始めてる(というか、実は知ってる)から、ぼくが今さらブログでわざわざ言うまでもないことなんだけど、ひょっとしたら、何かのお役に立つかもしれないから、念のため書いておく。


この世の中に「正しい」なんてことはない。


今日のブログはここで終わっても良いくらいだ。お疲れさまでした。


・・・ってわけにも(自分的に)いかないので、もう少し書き進めていく。


○絶対に正しいなんてことは、この世にはない

「この世の中に正しいなんてことはない」というフレーズをもう少し、ぼくが言いたいことに近付けて表現してみると、「この世の中に、普遍的に正しいなんてことはない」ということになると思う。


ぼくがこの考え方を採用するきっかけになったのは、実はガンダム(アニメ『機動戦士ガンダム』)だった。主人公のアムロ・レイは、物語の当初はただの民間人なのだけれど、ひょんなことから(物語ってのはだいたい「ひょんなこと」から始まる)、地球連邦軍の新型モビルスーツガンダム」のパイロットになる。


うん。通常のアニメだと、主人公が属する側が「正義の味方」になるんだけれども、『ガンダム』では、そうとは限らない。


細かいことを書き出すと長くなるんで止めるけれども、地球連邦軍が敵対するジオン軍は決して「世界征服」をもくろむ悪の集団ではない。彼らには彼らの言い分、論理があって、それが連邦軍とは相容れないがために、独立戦争を仕掛けるというストーリーになっている(なお、TV版の終わりには休戦協定がなされる)。


つまり、連邦軍側から見ればジオン軍の言ってることは間違っているし、ジオン軍側から見れば、連邦軍こそ自分勝手に見えるわけだ。


こういうことは、リアルな世の中にだってゴロゴロある。だから、普遍的、絶対的に正しいなんてことはこの世には存在しないと思っている。


法律だって実はそうで。例えば、車道を挟んで向こう側で、自分の大切な人が危害を加えられようとしているのに、「車道を渡るのはダメだから」って、横断歩道を探すことほどバカバカしいことはないとぼくは思う。横断歩道があろうがなかろうが、赤信号だろうがなんだろうが、ぼくは万難を排して、大切な人を守りに行くだろう。


もちろん、これすら正しいも間違っているもない。あくまでも、ぼくの想いだ。


○コミュニケーションにおける「正しさ」

もう少し、話を身近なところに置く。


ぼくは長い間、コミュニケーションあるいは人間関係において「正しいこと」、「正解」を追い求め続けてきた。でも(もう、多くの方が氣付いている通り)、コミュニケーションにおいて普遍的な正解なんてものはない。


正解/不正解というのは、どこかに回答があって、それに合致しているかどうかで判断する。国語の問題で、例えば「アムロがブライトさんにぶん殴られた時の感情を、50文字以内で答えなさい」という問いがあったとき、出題者側はある一定の「正答」を持っている。で、回答者が出した答えがその「正答」とどれだけ近いかで採点するわけだ。


でも、実際のコミュニケーションや人間関係はそうではない。いくら「社会的に正しい」、「一般的に正しい」回答を口にしたとしても、相手の受け取り方によっては0点になり得る。


あるいは、同じことをAさんが言ったら100点だけれど、Bさんが言うと0点とか、そういう残酷なシチュエーションだってある。この場合、BさんはAさんの真似をするのではなく、Bさんなりの回答を見つけるしかない。


こういうときは、こう言えばオッケー、みたいな問答集をぼくは(実は)長いこと追い求めてきたのだけれど、実はそんなもんは存在しない、ということがわかってきた(遅いよ)。特に、相手とより深いところでコミュニケーションを図ろうとするときには。


○いま・ここを感じて話すこと

ここでヒントになるのは、「いま・ここを感じる」ということなんだろうと思っている。


誰かと相対するとき、ぼくらのアタマは過去や未来に行ったり来たりで忙しい。


この人は昔こんなことを言ってたな、とか、こういう風に物事を考える人だよな、とか、こんなこと言ったら、この人との関係はこの先どうなっちゃうんだろう、とか、そんなことをぐるぐる考えて、そこから何とか答えを導き出そうとする。


うん。ぼくだって同じことを(いまだって多少は)している。


でも、実はそれよりも、いま、目の前の相手が何を想い、何を感じているのかに集中する。同時に、自分が何を想い、何を感じるかに集中する方が、コミュニケーションとしては質が高いかもしれないとぼくは思っている。特に、お互いに本音でコミュニケーションをしよう、という共通認識があるときには。


そこに「正しい」も「間違い」もない。ぼくが相手のことを100%想って発した言葉は、おそらく相手に届くはずだ。極端なことを言えば、いまの相手のことを100%想って発した言葉ならば、いま、相手に届かなくても、ぼくはそれで良いと思っている。


いまの相手がそれを受け取る準備が出来ていなくても、いつかその言葉は相手の深いところに届く。そう信じているからだ。


もちろん、それが原因で、ぼくと相手との関係がギクシャクしてしまったり、断たれてしまう可能性だって秘めている。でも、それを恐れて、いま・ここで感じたことをぼくが飲み込んでしまうのも、ちょっと違うよなあと思っている。


逆もまた真なりで、相手の想いや感じたことを出してもらえる自分でありたいなとも思っている。「これは正しいか、間違っているか」なんてことを相手に考えさせることなく、「この人になら、いま感じたことを伝えて大丈夫」と思ってもらえる自分でありたいと思っている。


そういうやり取りができる相手が増えたなら、この世の中はいまよりも、意思の疎通が円滑になるかもしれない。そうしたら、世の中はもっとハッピーになるかもしれないね、といまふと思った。

 

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