「比べる」ことの意味について


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人と比べちゃいけない、順位をつけてはいけない。差をつけるのは良くない。


うん。ぼくもそう思う部分もあるけれど、一方で、比べたり、順位をつけたり、差をつけることも必要な面もある。


例えば。ぼくは先日、楽読インストラクターNo.1を決める大会「R-1グランプリ」に参加してきた(リアルな話、会場にこの催し物名が出ているのを見て、一般の人が「R-1(お笑いピン芸人No.1を決める方)やってんの?」と聞いてきたという逸話がある)。


楽読の創始者である平井ナナエ氏(ナナちゃん)は、「インストラクターが増えれば増えるほど、レッスンの質は上がる」と断言したという。通常は、のれん分けすればするほど質は落ちるという定説にもかかわらずだ。


なぜか。それは「人」がやることだから。明るく楽しくハッピー!なAさんのレッスンが好きな人もいれば、静かで深い、ゆったり落ち着けるBさんのレッスンが好きな人もいる。受け手が同じでも今日はAさん、来週はBさんのレッスンが良いな、と感じることもある。


もちろん、レッスンのメソッド・流れは統一化されていて、どのインストラクターもそこから逸脱することはない。でも、それぞれのインストラクターが自分らしく生きていると、レッスンの味わいが自然と変わる。


だから、ナナちゃんは「インストラクターが増えれば増えるほど、質が上がる」といった。Aさんのレッスンが響かない人にも、Bさんのレッスンは響く可能性があるからだ。


この点に関しては、比べてもしょうがない。というか、比べるべきものではない。落ち着いているのが特徴の人に「もっと楽しく!ウキウキで!」というのは違う。ちなみに、「落ち着いてる」のと「暗い」のとは全く別物。そのあたりについては、また後日書く氣になったら書く。


○比べないと、わからないことがある

ただ、比べるべきもの、比べた方が良い場面というのもある。


例えば、ぼくはご飯を食べるのがめっちゃ早い。けれど、これはほかの人と比べてみないとわからないことだ。自分的には松屋吉野家でもすき家でも良いけど)に入って、店を出るまでに30分かかると「長居したな」と思う。牛丼なら、食べている時間は正味10分程度くらいだと思う。


だから、ぼくが人と一緒にご飯を食べに行くと、ぼくが注文したものが後から出てきたのに、先に食べ終わってしまい、相手が食べ終わるのを見守るみたいなこともよく起こる。良い悪いではなく。


でも、そのスピードは人と比べないと認識できない。だって、それが自分にとってスタンダードだから。比べてみて初めて「え?これってみんなそうじゃないの?」となる。


実は、人と比べることでその人の才能が際立つ・氣付くことがある。カール・ルイスだって、他の人と比べたから足が速いことがわかったわけで、一人で走っていたら氣付かなかっただろう(なぜ、ボルトとか最近の人を例に出さなかったのか、については自分でも不明)。


順位や段位をつけるのもそう。「この人はこの分野で一番」とか「この道ではこの人は黒帯」みたいなことが明確化されていると、その分野、道を進む人の目安になる。「なるほど、ナンバーワンはこうしてるのか」とか「黒帯はこんな感じか」と自分との違い、差を確認できる。だからこそ、己の伸びしろに氣付くことが出来る。


アカンのは、その順位や段位(地位といっても良いか)と、人格を結びつけちゃうこと。別にその人はナンバーワンだからすごいわけでもなく、エライわけでもない。発言権があるわけでもないし、2位以下の人がへりくだる必要もない。


○人間の評価軸は無限にある

評価軸が少なすぎるから、そういうことが起こるんじゃないかなー?とぼくは推測している。


かけっこの速い子が、必ずしも絵を上手に描けるとは限らない。絵が上手い子は、必ずしも文章が上手ではないかもしれない。文章が上手な子も、ひょっとしたらコピーライティング的なのが上手い子と、詩を書くのが上手な子と、小説を書くのが上手い子に分かれるかもしれない。逆に、これらすべてを万遍なく、80点くらいで出来る才能を渡されている子もいるかもしれない。


それもこれも、比べたからわかることだ。そして、比べて違いが浮き彫りになるから、お互いをリスペクトできる。一見、何も取り柄がなさそうに見えるけれど「場にいるとめっちゃ和む」。これも大切な才能だ。


人には全員、必ず何かしらの才能がある。その才能がわかりやすい人もいれば、わかりにくい人もいる。1つの能力が恐ろしく高くて、他がポンコツな人もいれば、万遍なく振り分けられている人もいる。


RPG好きな人ならわかると思うけれど、それぞれのパラメーターに数値が振り分けられているイメージだ。そのパラメーターが、恐らくぼくらが認知しきれないくらい多いだけで。


「私、何の取り柄もなくて」なーーーんていう前に、何か人より得意なこと、苦も無く出来るのに人に喜んでもらえちゃうことを探せばいい。絶対何か見つかる。そこに目を向ければ、その才能は開花する。


何かが人より得意なら、それをさらに伸ばせばいい。そうでもないなら、伸ばすよう取り組めばいい。不得意なことを人に任せるのも手だ。それもこれも、比べてみないとわからない。


コツは「自分には絶対才能がある」と信じて比べること。でないと、「自分には取り柄がない、自分はダメな人間」の罠にあっさり絡め捕られる。


何度でも言う。あなたが人と比べて得意なことは、絶対にある。あなたがその才能を発揮することが、周りの人のためになり、社会のためになり、世界のためになる。自己嫌悪なんてしてるヒマはないのである。


さあ。あなたの才能に氣付こう。

 

※ぼくはこのことについて、須田達史氏が主宰する私塾『覚醒塾』に参加して氣付かせていただいた。しれっと自分で考えた風に書こうかとも思ったのだけれど、ちょっとフェアじゃない感じがしたのでこの一文を入れておく。


『覚醒塾』について、詳しくはこちらから。

http://cyushin-do.com/kakuseijuku/

 

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