才能について


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たまには、ぼくの過去の話を書いてみようと思う。もちろん、今ココ以外はすべて過去か未来でしかないわけで、そういう意味で過去の話は書いてきたんだけれど、そういう意味ではなく、子どもの頃の話。


ぼくの父親は本が好きで、週末に街(ぼくが生まれ育った札幌では、市街地のことを『街』と呼んでいた。うちだけかもしれないけれど)に行っては、地下街の紀伊国屋書店で本を買って帰るのが定番だった。だから、父と外出すると本屋で好きな本を買ってもらえた。そんなことから、ぼくは子どものころから本を読む人だった。


裏を返すと、当時のぼくは内氣で人見知りで引っ込み思案という三冠王だったから、どちらかと言うと、仲間とワーッと遊ぶよりも、本を読む方が好きだったのかもしれない(決して、仲間がほしくなかったわけではないのだけれど)。


その頃よく読んでいたのは小説の類だった。物語なら、ほぼ何でも読んだ。夏目漱石安部公房みたいな文豪系から、赤川次郎アガサ・クリスティとかの国内外のミステリー、一時期は三国志にハマったこともあるし、歴史小説も読んだ。ライトノベルのはしりみたいな、コバルト文庫を(当時ちょっと好きだった女の子に勧められて)読んでいた時期もある。氷室冴子とか好きだったな。っていうか、亡くなってたのか。合掌。


それはさておき。それだけ読むのが好きだったこともあって、自然と自分でも書いてみよう、という氣になった。というより、「自分は小説家になるもんだ」と勝手に思い込んでいた。


で、原稿用紙を買ってきて、書いてはみるものの、どーにもこーにも筆が進まない。途中までは書けるんだけれど、「あれ?これって面白い?」という疑問が頭をよぎり、そうなるともう、進まないこと山の如しになってしまい、飽きてかかなくなった。で、何かの拍子に思い出したように別の作品を書き始めるんだけれど、これも頓挫するということを繰り返してきた。


○文章を書くのと、小説を書くのは別

以来、小説を書くことにチャレンジしたり、同人誌を作って小説を掲載してみたり、色々とやってみたのだけれど、どうにもこうにも自分的に納得のいく作品はできなかった。


でも、書くのは好きだから、社内報(会社の中で読まれる、社員とかが登場する雑誌みたいなやつ)を作る会社に入社して、ライターの仕事をした。ライターの仕事は、楽しかった。相手がこういうことを言いたいんじゃないか、こんなことを想ってるだろうということを聞いて文章にするのは、何の苦にもならなかった。


ただ、ぼくはずっと小説を書きたいと思っていた。なのに、トライするけれど、どうしても自分で「面白い!」と思える作品が書けない自分に納得がいかなかった。


でも、最近氣付いたことは、ぼくの才能はそこではないらしい、ということだった。


小説を書く、というのは、「0→1」を生み出すということだ。自分の頭の中に虚構世界を作り出して、その中で読者を楽しませたり、考えさせたり、自分の言いたいことを伝えたりする。どうも、ぼくにはその才能はあまりないらしい。


でも、人から聞いた話を整理してわかりやすくしたり、(当ブログのように)学んだこと、感じたことをまとめたり、文章構造をシンプルにして伝わりやすくするのは好きだし、得意だ。


○あなたにも必ず才能は渡されている

人には必ず、才能が渡されている。その才能をパンパカパーンと生かして生きている人もいれば、全く別のところで生きている人もいる。その才能が探さなくても見つかってしまう人もいるし、若いうちに自然と発揮されてしまう人もいる。でも、多くの場合は探して、磨かなければ使い物にならない。


ぼくの場合、どうやら「文章を書く」とか「物事を分析・整理する」才能があるのだけれど、その「書く」才能を、子どものころから慣れ親しんでいた「小説」と組み合わせてしまったがために、小説を書いては挫折するということを繰り返したんだろうと思う(いや、ひょっとしたら死ぬ氣でやったら小説家デビューくらいはできたかもしれないけれど、それが幸せかどうかはわからない)。


何度でも言うけれど、自分のことは自分ではわからない。だから、自分の才能は何か、その才能をどこでどう生かせばよいかは、自分だけではわからない。わかるとすれば、自分が何をしているときに氣分が良くて、楽しいか。その方向に、才能はあるんだろうと思う。


自分がやりたくて、楽しければ、自然と続く。一時的にやりたいと思っても、一過性のものなら続かない。


ぼくは、文章を書くことは本当にいくらでもできる。でも、小説を書くとなると、途端に「これでいいのかな?」が出てくる。いずれ解消するかもしれないけれど、いまのところはね。


だから、好きで好きで仕方なくて、ずーっとこれをしていたい!と思うものを、飽きるまでやり続ければよろしい。飽きないってことは、その方向性に何らかの才能が眠っているはずだ。その才能を輝かせたら、必ず誰かが喜ぶ。誰かのお役に立つ。


ぼくは、そういう人々が自分が好きで、いくらやっても苦にならない得意なことを持ち寄って成立する社会が理想だ。もちろん、これはあくまでぼくの理想で、押し付けるつもりはない。ただ、ぼくはそっちに進もうと思う。苦手なことは誰かにお願いする。代わりに、ぼくが得意なことは引き受ける。


まさに、天才集団だ。そんな世界が、ぼくの目の前にはすでに広がっている。

 

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