「形から入る」こと

 

 

何かを身に着けたり、何かを習得しようというとき、とりあえず型通りやってみるのは多分有効なんだと思う。武道やスポーツなどは、特にわかりやすい。

 

剣道なら(やったことないけど)竹刀を一日100回振る、野球ならバットの素振り100回とか、そういうことからたぶんスタートするんだろう。なぜなら、実はそれが習得に向けて一番手っ取り早いから。

 

長年、先人が取り組んできた中で、「こうすればこうなる」を凝縮したのが「型」だとぼくは思う。おそらく、本来的にはその一つひとつに意味があって、こう動く理由というか、背景があったはずだ。

 

もちろん、そういう型に込められた深い意味・意図を最初から知るのもよいと思う。そういう型に込められた意味、意義を伝えられる師匠に巡り合えることは、幸運だとも思う。でも、それを知らなくても、とりあえず型通りやることにも、大いに意義があると、最近感じている。

 

○「形から入る」ための型

例えば。型があると、やってる本人のエネルギーが低くても、それなりにはなる。面白くはないかもしれないけれど、それこそ「形」にはなるんだろうと思う。

 

これも想像だけれど、生け花(華道)にも型があって、それを知っていればオーソドックスに活けられたりする(んじゃないかな)。そこには、独自性や思考が入るスキマはない。

 

言い換えると、自動操縦、オートマチックで行ける。

 

要するに「形から入る」ということ。そうすると徐々に中身が伴ってきたりするのだ。面白いことに。

 

ベスト・キッド』という映画をご存じだろうか。ちょっと前、ジャッキー・チェンがリメイクしたらしいんだけど、ぼくは旧作しか知らない。

 

ごくごくざっくり説明すると、いじめられっ子が空手家に弟子入りする。でも、最初は窓ふきや車のワックスがけなどをやらされる。当のいじめられっ子は「空手、教えないんかい」と思いつつも、その雑用にいそしむ。すると、この窓ふきやワックスを塗り、拭く動作が、実は空手の基本になっていたのだ!という逸話が出てくる。

 

いや、ほんとかよ、と思うだろう。ぼくも子どもながらに「そんなアホな」と思って見てた(ただ、ワックスの塗り・拭きをやってみたことだけは否定しない)。でも、今思えば、案外真理かもと思う。

 

毎日、「型」を形通りにこなしているうちに、体が勝手にその基本を体得していく。体で覚えたものは、アタマで仕入れた知識よりも強い。とっさのときは、体が先に動く。でないと間に合わない。思考した分、行動が遅れるからだ。そのコンマ何秒が、格闘家にとっては勝敗を決めるし、剣豪にとっては命取りになる。

 

○外側から、内側へのアプローチ

ぼくがちょっと前から取り組んでいる「型」は、とにかく「口角を上げる」という型だ。面白くてもつまらなくても、何もなくても氣付いたら口角を上げ続ける。これ、意識していないと大抵口角は下がっている。故に、別に不機嫌ではないのに、何となくムスッとした顔つきになってしまう。

 

これも一種の「型」だ。氣付いたら、口角を上げる。楽しくなくても良い。愉快でなくても良い。多少嘘くさくても構わない。ただ、口角を上げ続ける。そうしていくうちに、だんだん口角が下がらなくなり、微笑んでいる状態をキープできるようになる。

 

そして、ここからは「ほんとかよ」の世界かもしれないが、心が優しく、落ち着いてくる。

 

心のうちが外に表れるという考え方もあるけれど、外側から心の中にアプローチする、というやり方も、ぼくはあると思っている。形から入って、それが結果として中身も伴う。

 

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