自分のことは、自分ではわからない


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〇敢えて「絶対」と言おう

ぼくは基本的に「絶対」という単語を極力使わないように心掛けているのだけれど、今日だけは使う。いいか、超当たり前だけど、超大切なことを書くぞ。

 

自分のことは、

自分だけでは絶対にわからない。

 

これ。何度か当ブログでも書いてきたし、まー、あんまり繰り返してもアレかなとは思いつつも、でもまあ大切なことなので、改めて書いておきたい。

 

自分のことが自分でわかる、あるいは、自分のことは自分が一番よく知っているなんていうのは、幻想であり、思い上がりであり、勘違いである。

 

これだけは、絶対の自信を持って言える。なぜならば、ぼくがずーっとそうだったからだ。

 

〇「自分のことは自分が一番わかる」わけがない合理的な説明

ぼくは、自分のことは自分が良く知っているし、自分のことは全て自分だけで把握できるもんだと思っていた。ところが、他の人と話をしたりするうちに、どうにもこうにも自分が把握している自分と、ひと様から見えている自分にギャップがあることに氣付いた。

 

極めつけは、友人からコーチングを受けていて、自分を客観視するワークをやったとき、自分では全く考えてもみなかったような自分が出てきて、しかもそれが、他の人からも指摘されていた自分だったりして、びっくりするやら恥ずかしいやら、という想いをした。

 

自分ひとりで自分のことを100%理解できると思ったら、大間違いである。

 

例えば、あなたは自分の姿を肉眼で、直接見たことがあるだろうか。多くの人は、鏡に映った自分や、写真に写った自分の姿を見て、自分の外観を確認しているに過ぎない。でもそれは、あくまで鏡に映したり、写真に撮ったものを間接的に見ているだけで、肉眼で直視しているのとは違う。

 

あるいは。自分の声を録音して聞いたとき、「こんな声じゃない」と思ったことはないだろうか。まさか、こんな声ではないだろうと。でも、他の人にはそう聞こえている。どちらかと言えば、この場合は録音された音の方が現実に近い。

 

ぼくらが聞いている自分たちの声は、外から入ってくるのもあるけれど、体内で響いているものもあるだろうから、やはり他の人が聞いているのとは響きが違う。

 

〇自分のことを自分で本当に知るために

つまり、それだけぼくらは自分たちの姿を正しく把握できているわけではないのだ。となれば、自分の性格や在り方や考え方だって、自分一人できちんと把握できていると思う方が理屈的に合わないと思うじゃないか。

 

なのに、なぜかぼくらは自分で自分の性格や考え方を決定したがる。故に、他の人からは自信満々に見えているのに「自分に自信がないんですぅ」などと言ったりする。言うだけならまだしも、そういう行動を実際に取ったりする。ところが、他人からは自信満々に見えているから、違和感しかない。

 

で、こういう場合、実像を的確に捉えているのは大抵他者評価の方だったりする。それは、さっきの自分の実像を自分では肉眼で捉えられないのと同じだ。自分で自分を見るには、死角が多すぎる。

 

いや、いつもいつも他人の評価を氣にしろ、というつもりはない。ただ、自分のことは自分だけではわからないと頭に入れておくこと、そして、信頼できる誰かに自分を見てもらって、他人からはどう見えるのかのフィードバックをしてもらうことは、自分という生命体を把握するのには役立つと思う。

 

自分のことは、自分が一番わからない。

 

明日は、この文言に一見矛盾する(けれど、実は整合性が取れる)ことを書いていきたい。

 

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