「わからない」を言える人になる

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わからないことを「わからない」と言える人になるトレーニングを始める。

 

ぼくはつい、相手の話を「わかったふう」で聞いてしまうことがある。勤め人ライフでは、これが案外良くて「呑み込みの早い人」と評価されたりする。

 

一方で、相手と本当の本当にわかり合うだとか、相手の考えていること、感じていることに100%寄り添おうとしたときには、この「わかったふう」がじゃまになることがわかってきた。

 

 

 

「わかったふう」はあくまで「ふう」であって、そのものではない。

 

「みりん風調味料」はどこまで行ってもみりんではないし、「手ごね風ハンバーグ」には、本当の意味で手作りの味わいは生まれない。キツイ言い方をすれば、どこまで本物に近付いても、「ふう」はあくまで偽物でしかない。

 

○「わかったふう」の方が、カンタンだった

今まで、どうして「わかったふう」をしてきたかと言えば、その方がカンタンだったからだ。相手の言わんとすることを「わかったふう」で受け止めて自分なりの解釈をしても、そこまで大きく外すことはない。だから、相手にとってもぼくにとっても時間の節約になる。

 

いや、ここまで論理的に考えていたかどうかすらわからない。そのくらい、相手の話を聞いて瞬時に理解する=わかったふうで受け止める、ということをしてきたからだ。それが上っ面の付き合いや、ビジネスにおけるやり取りならば、むしろ良いかもしれない。一を聞いて十を知る、察しの良い人と思われるかもしれない。

 

でもまあ、やっぱりわからないことはわからない。その「わからない」をどうするか。今までのように「わかったふう」でやり過ごすのか、それとも、わかろうとする努力をするのか。

 

もちろん、相手が考えていることや感じていることを100%同じようにわかることは、不可能に近い。今世、別の人間として生まれてきた以上、相手のことを相手と全く同じく感じ切ることは、多分できない。でも、100%わかることはないと理解しながらも、「わかろうとする」というある種切ない試みは、必ず相手と自分との間に何かをもたらすに違いない。

 

○実は自分に向けられていたもの

最近、こういう論法になることが多くてまいっちんぐマチコ先生(!)なのだが、この「わかったふう」は、実は最も自分に向けられていたのかもしれない、と感じる。

 

かつてぼくは、優柔不断の有段者であった。まー、決められない。何かを決めた後も「うむー」とか言って悩んじゃう人だった(だった、と敢えて言おう)。そのあたりのお話は、こっちの記事にも書いたので、ぜひ読んでほしい(と、さらっと宣伝)

 

abenob2010.hatenablog.com

 

で、この「優柔不断」なのと、自分に対して「わかったふう」をしてきたのは、背反するようで根っこは一緒だなと感じる。

 

自分にとって大切なことであればあるほど、何を選択するのが自分として心地よく、また悔いがないかを自分自身は知っているはずだ。その確信=核心に触れてしまえば、それ以外の選択肢を採れるはずがない。

 

でも、そこに触れられないから、わかったふうをする。逆に言えば、本当に何でも良ければ、何でも良い=どれかを瞬時に選ぶという判断が瞬時に下せるはずなのだ。

 

例えば。ぼくがどーしても今日はステーキが食べたければ、万難を排してステーキを食べる。そこで「ハンバーグも捨てがたい」となるのは、核心に触れられていないから、かもしれない。あるいは、「どちらを選んでも良い」という確信がないから。

 

何を選べば、自分の氣分が最高に良いのか。そこに常に触れられていれば、迷いは生まれようがない。実は重大な選択であればあるほど、自分の本当の喜びや望むことが何か、わかるはずだとぼくは思ったのだ。

 

だからこそ、「わかったふう」を卒業する。ぼくが何を望み、何を選べば本当に心地よく、最高に氣分が良いのかを、真剣に見に行く。そうすれば、迷うことはなくなる。やり慣れないと時間がかかるかもしれないけれど、それも回数を重ねることで、解決するだろうと思っている。

 

全て、自分が答えを持っている、知っていると信じ切る。その上で、答えを自分の中に聞きに行く。深いところへ、聞きに行く。そういう作業を丹念にする。そうして、自分の考え方や、判断の軸が定まっていくんだろう。



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