謙遜し過ぎてしまうあなたへ

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人々が、謙遜し過ぎないで済む世の中になったら、とても住みやすくなるんじゃないかと思っている。


例えば、Aさんが作ってくれたトリのから揚げがとてもおいしくて、「これ、おいしいね」と言ったとき。Aさんが「ありがとう!」と受け取ってくれたら、ぼくは嬉しい。


でも「いや、今日はちょっと出来が悪くてね」と言われたら、なんだかションボリしてしまう。出来損ないのトリのから揚げをほめたみたいで、いまいち嬉しくない。


もちろん、Aさんが理想とするから揚げ像はあったんだと思う。でも、ぼくにとっては目の前にあるから揚げがこの瞬間全てであって、それがおいしいんだから良いじゃないか、と思う。


「ありがとう!でもね、ほんとはもっと○○が△△で、もっとおいしいんだよ」と言ってくれたらば。そりゃー、次回に期待がふくらむというもんである。


○思考停止から抜け出そう

ぼくらは、無意識で「反省することは良いことだ」と思っている。いや、悪いことじゃない。確かに良いことだ。ただ、そこに「過度の反省」が入ると、途端にややこしくなってくる。


ぼくの理想は、最悪の状態にも良い点を見出し、最高の状態にも反省点を見出すことだ。


今日のから揚げは、味付けは濃すぎる、揚げ方は失敗して焦げ焦げ、パッサパサでジューシーさも無かったとする。この事象を捉えて「こんなもんダメだ」というのは簡単だ。

 

でもぼくとしては、そこからでも「良かった点」を見つけ出したい。「濃すぎたけれど、味付けの割合は良かった」とか。「焦げてないところはそこそこイケる」とか。減点法より加点法で考えたい。


逆に、もう味付けも揚げ具合も何もかも完璧で、もう非の打ちどころが一個もない!完璧なから揚げが出来上がってしまった!としても、そこからでも何かさらに良くなる点を探したい。

 

ひょっとしたら、どうしたらコンスタントにこのレベルのから揚げを揚げ続けられるか?かもしれないし、もっとアツアツの状態で食べてもらえるかもしれない?と考えてみたり。付け合せに一工夫できるんじゃないか、なーんてこともあり得る。


要するに「最低」でも「最高」でも、現状を見失うと思考が停止してしまう、とぼくは思っている。


○goodとbadのグラデーション

世の中に、100%ダメなこと、100%悪いことなんて、そうはない。あるかもしれないけれど、ぼくらが生きている中では、だいたい、goodとbadがグラデーションのようになっていると思う。


良いところを切り取ればどこまでも良く見えるし、悪いところを切り取ればどこまでも悪く見える。だから、ぼくがまず取り組みたいのは「客観的に見て、どんな感じか?」を把握することだったりする。


理想の状態を思い描いていると、その状態から少しでも欠けていることが許せなくなってくる。ここが違う、あれが違う、ここがダメ、あれがバツ、と言いたくなる。氣持ちはわかる。だって、理想と違うんだもん。


でも、現状あるものをまず、そのものとして正当に評価することも、ぼくは必要だろうと思う。

 

そう。勘のいい人はここまでぐだぐだ書かなくても、ぼくが何を言いたいかわかってるはずだ。

 

そう。「から揚げ=自分自身」だとしたならば。

 

自分自身を客観的に見ることは非常に難しいけれど、今自分はどういう状態で、どのくらい理想に近付いていて、あとは何が足りないのかを把握する。そうすることで、ようやく対策が打てる。

 

そのためにも、「自分が揚げたから揚げ=自分がこれまで生きてきた半生」を120%(場合によっては200%でも300%でも)認めて、ここから先どうしたらもっと美味しくなるかを考えたい。

 

人から誉められたら、過不足なく受け取って、次の糧にしたい。そんな人が増えたら、この世界はもっとハッピーになる、と信じている。

 

汝のから揚げを讃えよ。

 

唐の高僧、暢珊の言葉である。

 

当然嘘である。でもまあ、そういうことをぼくは言いたいんだよ。

 

 

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