執着とさみしさについての考察



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自分自身に対する認識と、本当の自分が実は違っている、ということはよくある 。

 

ものすごくわかりやすく言えば、「ぼく、うどん好きじゃないんだよね」と言いつつ、三食うどんを食べるようなことが起こる。あくまでも例え話だけれど。

 

あ、ぼくは三食うどんは避けたい派です(香川県に行ったら別)。

 

何の話だっけ。うどんじゃなくて。

 

そう。「自分ってこういう人間」と思っていることと、実際の自分の在りようや、していることがズレてる、極端なときは逆を行ってるなんてこともある。

 

いまから書くのは、ぼくが最近氣付いた、ぼく自身の中にある認識のズレ(あるいは、真逆のやつ)についてだ。ひょっとしたら、同じようなことを感じている人もいるかもねと思って、書いてみる。

 

○愛が濁ると、執着になる

このところ、物事に対する執着が強いなと感じていた。

 

しゅうちゃく【執着】

ある物事に強く心がひかれること。心がとらわれて、思いきれないこと。

コトバンク デジタル大辞泉

 

執着している先は色々で、仕事のことだったり、人間関係だったり、パートナーについてだったり、色々の色々だ。

 

「執着しているのかもしれない」と氣付いたきっかけは、ものすごくおおざっぱに言えば「上手くいっていなかった」からだ。

 

ぼくが相手に対して、こうした方がいいとか、こうしたらもっと良くなるとか、 そういう氣持ちがあって何かを言ったりやったりしたんだけれど、それが相手に受け入れられなかったり、ときには衝突を引き起こしたりした。

 

もし、ぼくの言動が本当に相手を想ってのことならば、うまくいくはずだ、と思ったのだ。おこがましいかもしれないけれど。自分が良かれと思ったことがスッといかない、何か引っかかる というのは、ぼくに原因があると考えた。

 

だから、ぼくが何かをしようとしていることは、「執着」なのかもしれないなと思ったのだ。

 

物事にこだわったり、強い想いを持つことは、決して悪いことじゃない。でも、そこにコントロールしようという意思が入ったとき、ぼくはそれを「執着」と呼ぶ。

 

例えば、相手のことを想って、何か言う、する。その言動そのものは愛だと思うし、尊いと思う。でも、そこに「相手から良く思われよう」とか「この人を変えてやろう」とか「こういう自分を見せつけよう」みたいな意思が入った時、愛は濁り、執着になる。ぼくが、自分の言動の結果にとらわれているからだ。

 

ふむ。結果にとらわれるのには、何か理由があるはずだ。そう思って、自分と対話してみた結果、なんと「さみしかった」という結論にたどり着いた。

 

○自分のさみしさを埋められるのは自分

ぼくは自慢じゃないけれど、友だちや仲間には恵まれていると思う。別に友だちがいなくてさみしいと思ったことはない。

 

で、ぼくが何を感じたかと言うと、「自分が自分を認めて、寄り添っていなかった」ということに氣付いてしまったのだ。

 

表面的には「ぼく、イケてるんです」とか「ぼく、頑張ってます」とは言えるし、人からもそう言ってもらえるけれど、自分自身が心の奥底の深いところで、自分を認め切れていなかったな、と思った。だから、人からの承認や賞賛がほしかったし、よく見られたい、認められたい、という想いがあった。

 

では、そのさみしさは誰が埋められるのか。これはもう、実はぼく自身しかいない。

 

ぼくらは(少なくとも、ぼくは)さみしいとき、つい誰かと繋がりを持とうとする。これは、人間的には間違ってない。誰かと一緒にいれば、さみしさをまぎらわすことができる。でも、今ぼくが言っている「さみしさ」は、もう一段奥にあるものを指している。

 

ぼく自身がぼく自身を認めて、手をつないで、しっかりと共に歩む必要があることに、改めて氣がついた。そういう自分であれば、人から何かをもらう必要はない。承認も何もかも、自分が自分に与えられる。余った分は、人にも提供できる。

 

アタマではわかっていたけれど、体感的に「自分はさみしかった」と感じるまでには至っていなかった。これはもはや、理屈の世界ではない。感覚・感性の世界だと思う。



○自分自身と手をつなぐために、人に会う

 ひょっとしたら、世の中の多くの人は自分自身としっかり手をつないで生きているのかもしれない。

 

でも、ひょっとしたら以前のぼくのように、自分自身と手をつなげずに、無意識的にさみしい思いをしている人もいるかもしれない。

 

そういう人に、ぼくは自信を持って言える。大丈夫。あなたが氣付きさえすれば、あなたは必ずあなた自身と繋がれる。

 

だって、あなたの心の中にいるあなたは常に、あなた自身を待っているから。待ちくたびれてあなたの元を去ることも、別の人と一緒になることもない。死ぬまで、ひょっとしたら死んだ後も、あなたを待っている。

 

ただ、命が尽きる前に自分自身と繋がりませんか?とは思う。ぼくの場合、だいぶ待ちくたびれて、暇つぶしに始めたツムツムにも飽きて、少し拗ね始めていたみたいだったから(たとえ話です)。

 

もし、あなたがひょっとして、自分自身と繋がれていないんじゃないかと思ったら、どうしたらいいか。逆説的だけれど、人と会うと良いと思う。特に、自分自身と手を繋いでいる人と会うのが良いと、ぼくは思っている。ぼく自身、人と話し、自分の中を見に行くことを繰り返すことで、この「さみしい」という感情に氣付けた。

 

だから、もし良かったら、ぼくに話を聞かせてほしいと思う。どれほどのことが出来るかはわからないけど、自分のさみしさに、少しだけ先に氣付いた先導者として、何かしらのヒントはお渡しできるはずだ。

 

共に生きましょう。

 

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