僕が今、人間関係をどのように見ているかについて

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親友と話していて氣がついたことがあるので、緊急シェアをしたい。

 

と書いて、いくつか表現上嘘というか、語弊があることに氣付く。

 

 

1つ目は、誰とコミュニケーションを取っていたかについて。僕は迷わず「親友」と書いたけれど、正確に言うと元奥さんだったりする(!)。でも、今の関係を適切に表現しようとすると、「家族」、「親族」か「親友」がぴったりくる。だから、敢えてここは「親友」で通す。

 

次に「話していて」と書いた。これも正確に言えば「Facebookメッセンジャーでやり取りをしていて」だ。だから、言葉を発してコミュニケーションを取ったわけではない。でも、これもやはり、僕の中では「話した」という感覚が強くあるから、そのまんまにしておく。

 

なんでこんなメンドクサイことを前置きとして置いたのかは、さっぱりわからない。でもまあ、僕のブログが100%真実だけでできている訳ではないよ、ということは伝わったと思う。

 

人間関係は「give&take」なのか?についての考察

本題に入る。

 

僕が言いたいのは「人間関係は、実はgive&takeだけでは全くもって語り尽せない」ということだ。

 

だから、Twitterならば

 

「人間関係は、実はgive&takeだけでは語り尽せないなう」

 

と打ち込めば終わる話だ。そう。世の中は突き詰めればシンプル。でも、僕は無駄を愛し、駄文を愛し、「そんなこと知ってるわい」と人が思うことを長ったらしく説明するのが好きだから、ブログを書く。お付き合いありがとうございます。

 

一見、人間関係は「give&take」で出来ているように見える。

 

例えば。多くの親は子どもを育て、教育を受ける機会を提供し、めしを食わせ、家に住まわせ、なんだかんだと面倒を見る。場合によってはしつけさえする。

 

子どもは親からの庇護や援助を受けて成長し、大人になり、一人前になり、これも多くの場合は、年老いた親の面倒を見たり、介護をしたり、場合によっては老人ホームに預けたりする。一見すると、give&takeだ。

 

男女間のパートナーシップ、あるいは夫婦関係もそうで。例えば、夫がサラリーマンで妻が専業主婦という場合には、夫は二人の生活費を稼ぎ出し、衣食住を提供する。妻は夫の生活をサポートし、ハウスキーピングを行う。ふむ。ここでも、give&takeが成立しているように見える。

 

友人関係もそうだ。お互いに何かを提供したり、与えあったりして、その関係が成り立っているように見える。それは、お互いの楽しい時間だったり、繋がり感・連帯感だったり、情報だったりするのかもしれない。

 

全ての動植物は、本来「ただある」だけの存在

でも、僕が思うのは「人間関係は究極、give&takeでは語り切れない」ということ。そりゃそーでしょ、と思う人は、この先は読まなくてもイイ、というか、この記事自体読まなくたってイイかもしれない。

 

生物はすべて、極論すれば「ただ生きている」と思う。動物も植物も「だれかに何かを与えてやろう」「何かをしてやろう」と思って生きたり、生えたりしているのではない。ある意味、「ただある」存在だろうと僕は考える。

 

その上で、その動物や植物が、誰かの何かの役に立つ、何かを与えることはある。例えば鶏は、たぶん、ただ生きている。でも、彼らが生きるために自然にしている「卵を産む」という行為から、僕らは「鶏卵」というギフトをいただく。あるいは、彼らを〆て、「鶏肉」というギフトをいただく。

 

これは動物に限ったことではなくて、例えば、稲はただただ、本能で芽生え、育ち、秋には稲穂を実らせる。僕たちは、それを収穫して「コメ」というギフトをいただく。

 

動植物は(恐らく、でしかないけれど)「人間にこの命をくれてやろう」と思っているわけではなくて、ただ生きている。それを、僕たちはギフトとして、ありがたく受け取っている。たぶん、動植物たちはそのことに対して見返りを求めたりはしないはずだ。

 

「見返りがないのが当たり前」の世界を生きる

そう考えた上で、人間関係に戻ってみる。

 

「この人にご飯をごちそうしてあげよう」
「ココを掃除しておいてあげよう」
「あの人にこの人を紹介してあげよう」

 

この行為自体は、たぶん善意から生まれている。でも、僕なんかは時々、人に何かをしてあげたり、何かを提供したとき、無意識に「見返り」を求めるココロが生まれる。そして、勝手にイラついたり、怒ったりする。正確に言うと、そういう時期があった。

 

「あの人はごちそうしてあげたのに、お礼も言わない」
「ココを掃除してあげたのに、氣付いてもくれない」
「あの人を紹介したのに、何の連絡もない」

 

でも、これが自然の生態系だとするならば、僕がその人に何かを提供したのは単なる「結果論」であって、別に僕がすごいからでも、エラいからでも何でもない、と最近思うようになってきた。

 

ヘンな話、最近は「一緒にご飯を食べてくれてありがとう」、究極は「いてくれるだけでありがとう」と思っているフシがある。それが良いとか悪いとか、悟っててイケてるでしょヘヘヘイとか、そういうことを言いたいんではない(イケてると言われるのは、悪い氣はしないけれども)。単にそういう感じ、というだけだ。

 

「give&take」よりも「love&peace

これは、僕が人間関係を「give&take」で見なくなったし、見たいと思わなくなったから、だと思う。自分が好きで人にご飯を提供したり、掃除をしたり、誰かに誰かを紹介する。それはもう、自分が好きでやってること、あるいは本能でやっていること。鶏が卵を産んだり、稲が実るのと同じようなことじゃないかと思うようになってきた。というか、そう考える方が自分的に氣持ちが良い。

 

こういう状態でいると、誰かが自分のしたことに見返り(お礼とか、何でもいいけど)をくれなくても、別に腹が立たない。僕の行為は、したことで完結しているから。

 

だから、お礼を言われたり、何かお返しがくると、より嬉しい。当たり前田のクラッカーである(古い)。「えー!そんなつもりじゃなかったのに!」と。コレ本心。

 

でも、お返しがなかったとしても、僕の行為は既に完結しているッ、と自信を持って言える。例えば、メッセージを送ったのに返ってこなくても、僕が送りたいという氣持ちと、送るという行為は完結しているわけだ。

 

「give&take」の世界を見ていると、これはよくわからないかもしれない。でも、実際世界はそうできている氣がしている。というか、そうとしか見えなくなってくる。そんなことを、親友と話して感じた。

 

読んでくれてありがとう。ラブ&ピース。んじゃまた。