僕らは常に試され続けているのかもしれない、ということについて

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僕らは常に「試されている」のかもしれないと思うことがあった。

 

最近の僕は、出来るだけ自分が理想とする生き方を目指しているし、それに向けて努力をしているつもりでもある。でもやっぱり、時々自分の理想ではないことが起きてしまう。まあ、そういうこともある。

 

 

「何が起きたか」よりも「何を感じたか」を書きたい

例えば、と、起きたことのあらましを説明するのは、僕の本意ではないのでしない。ただ、僕は「無責任な言動」で、「人に迷惑をかけ、傷つけてしまった」のである。

 

人を傷つけるのは、僕としては全く理想ではない。しかも、それは僕が少し(ほんの少し)想像力を働かせ、ほんの少し手間をかければ解決できたことだった。加えて、その友だちに迷惑をかけ、傷付けてしまった後の対応も、今にして思えばヒドいものだった。

 

実は、僕らは常に試されている、ような氣がする

このことで僕が感じたのは「人は(実は)常に試されているのではないか」ということだった。

 

今回で言えば、僕は常に理想の世界を見ているつもりだった。でも、油断した瞬間につまづいた。それは誰のせいでもなく、自分の責任においてだ。

 

僕らはつい「試験」や「テスト」、あるいは「何らかの出来事が起こるとき」が「試されタイミング」だと思ってしまう。当たり前だ。テストはテストで、実際試されてるし。

 

でも、本当は、僕らは常に試されている。誰にか、ということではない。強いて言えば、自分自身にだ。

 

僕らは基本的に自由だ。Aを選択しても、Bを選択しても、選択しなくてもよい。しかし、それぞれの選択によって、それぞれに人生は分岐点していく。それは毎秒、毎瞬起きている。

 

氣付くときも氣付かないときも、実は答えは出ている

いかに、その選択の質をあげるか。自分の理想に近づく選択をできるようになるか。これが難しい。その瞬間の感情や状況に流されて、自分の理想につながらない選択をしてしまうこともある。でも、その時はそれが最良だと信じ切っている。

 

変な話に聞こえるかもしれないけれど、今回のように、わかりやすく答えが出てくれる時は、むしろ良い。選択が僕の理想につながらなかったことがわかったから、フィードバックをかけられる。もちろん、人に迷惑をかけたことや、失われてしまったこと、傷付けたことに関しては二度と元に戻ることはないけれど、少なくとも、僕がもう一度同じ過ちを繰り返す可能性は低くなる。

 

問題は、そのことに氣付かないときだ。

 

もちろん、僕が選択したことに対して、常に、微妙な答えは出ているはずだ。しかし、その微細な答えに氣付くには、感覚を研ぎすます必要がある(んじゃないかと、僕は考えている)。

 

そんなことを考えた。本当に、勉強になった。

 

人に迷惑をかけ、傷付けておいて「勉強になった」とは何事か、と怒る人もいるかもしれない。まあ、そう思われても仕方がないとも思う。でも、この学び(氣付きでも、なんでも良いんだけど)を、次に生かすことこそ、今回迷惑をかけた友だちへのお詫びと感謝になるんじゃないか、と勝手に思っている。

 

全然的外れかもしれないけれど。