「何のために」を考える

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こんなテーマのブログを以前にも書いたことがあるような氣がするけれど、構わず書く。なぜならば。改めてまた、このことが僕のテーマになりつつあると実感しているから。

 

 

 

全ての行動の裏側には「何のために」が本来あるんだろうと思っている。あなたは、何のためにそれをするのか。

 

例えば、
何のために、その仕事をしているのか。
何のために、その人と一緒にいるのか。
極論するならば、何のために、生きているのか。

 

きっと、色々な理由があるでしょう。

さて、あなたは「何のために」、そのことをしているんでしょう?

 

「あなたは、何のために生きているのですか?」

受け取りようによっちゃ、まあまあ重たい質問だ。
理由がなくちゃ、生きていてはいけないようにも読めてしまう。

 

でも、そういうことが言いたいんじゃない。

 

あなたは、生きているうちに、どんな世界を見たいですか?
あなたは、どんな感情を味わいたいのですか?

 

そんなことを聞きたいのです、僕は。

 

今から、とてつもなくデカい話をする。

 

僕は、この世の中がより良くなるために、この命を使いたいと思っている。

 

具体的に言えば、誰しもが自分の感情を大切にして、自分の本音を楽しく言い合い、そのお互いの本音をお互いが許容し合える世界を作りたいし、そんな世界を見たい。

 

お互いの差や違いを隠したり、見ないふりをして表面的に付き合うのではなくて、その差や違いを把握して、許容した上で付き合う。そんな世界を実現したいと思っている。

 

僕が見たい世界を実現するために生きている

極論すると、僕はそのために生きている。あるいは、生きようと努力している。僕の生きていることがその世界の実現に直結するように、日々の生活を送りたいと思っている。

 

そう考えてみると、自分の意識や行動が変わる、氣がする。そういうミッション(と、敢えて言おう)のために生きている自分が、本当にそれをしますか?と問うならば、たぶん、タテマエで生きることはしないだろうし、誰かをdisったり、「アイツはここがこうだからダメだよね」とは考えないだろうし、言わないだろう。

 

何かをするときに「何のために」かを考える。自分が今しようとしていることは、自分が見たい世界の実現に近づくことなのか。はたまた、そうではないのか。

 

言語化すると「やりたいことをする」になるんだけれど、「やりたいことだけして、ハッピーハッピー!」とか「不労所得で家が建ちました!」みたいなこととは、少しずつ違う。

 

僕は、自分が本当に見たい世界、実現したいことのために行動しようと思っている。それがたとえ、人間としての僕が「えー、マジで・・・?」と思うことでも。いや、もちろん躊躇はするし、「ちょっと待ってもらって良いですか・・・?」みたいなことは起きうると思う。だって人間だもの。

 

ただ、もし本当にそれが僕が見たい世界の実現に一歩でも近づくのならば、それはやらない理由にはならんよな、とも思っている。

 

それは「何のために」なのか。いつも心に、その問いを持ち続けたいなと思っている。