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ライフスタイルを選び直す勇気

 
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photo by chisako

 

最近、アドラー心理学関連の本を立て続けに読んだ。そして、ウーとかあーとかムーフーとか言っている(感想になってない)。

 

で。アドラー心理学について、ちょっと説明するんで、聞いてほしい。あくまで僕のフィルターを通した理解だけれど。

  

 

■社会に「過度に」適合した人

アドラー心理学では、全ての課題は「人間関係にある」と考える。

 

そして、人からの期待や社会からの要請を受け入れて、自分を抑えて生きる人を「過度に社会に適合した人」と言う。

 

「人からこう言われたから」とか、「あの人はこう思っているに違いないから」と、自己犠牲で生きる人のことだ。

 

むろん、人のために生きることが100%悪いワケではない。問題は、それが「あなたのためを思って」的な発想になりやすいこと。

 

■課題の分離が出来てるか否か

アドラー心理学では、「課題の分離」という考え方も採る。

 

例えば進学の際、自分が生きたい大学ではなくて、親に言われた学校に進む。これは、親子ともに課題の分離をしていない、と見る。

 

学校に行くのは子どもだし、親の希望はどこまでも親の希望でしかない。親としては、子どもに提案することは出来ても「指示」することは、本来できないはず。だって、それは子どもの人生だから。

 

子どもの側も、自分で自分の進路を選択することが出来るはずなのだ。あくまで本来は。

 

■「目的論」で考える

また、アドラー心理学では「腹が立ったから怒鳴った」とは考えない。むしろ「怒鳴る」という目的が先にあって、そのために「イライラする」、「腹が立つ」という感情を採用すると考える。

 

だから、「過度に社会に適合する人」にしても「課題の分離が出来ない人」も、目的論で見る。

 

社会に過度に適合する人は、「そうすれば、人から受け入れてもらえるから」、もう一歩進めると、自分の意見を主張して、人から嫌われるのを避けるために、その方法を採る。

 

「課題の分離が出来ない」のも、一言で言えば「そうしたい」からだ。

 

先ほどの例で言えば、親の側は「相手のためを思って」進路に口を出す。でも、潜在意識では、子どもに影響力を発揮したいという氣持ちがあるかもしれない。

 

子どもの側で言えば「自分で選択したワケではない」という言い訳を採用出来るから、親の言うことを聞くという行動を採る。

 

これは、もちろん無意識でのことだ。でも、どこかでそういう意識があるのかもしれない。

 

■思い当たる節がありすぎて辛い

僕は(敢えて自分で言うが)良い人だし、人見知りで無口な性格である。それは、「そうしないと受け入れてもらえない」という強迫観念だったりする。

 

つまり僕は「人見知り」で「無口」という性格(アドラー心理学では「ライフスタイル」と言ったりする)を採用することで「人と深く関わらずに済ませる」という目的を達成していたことになる。

 

実際、その自覚はないわけではない。

 

前述の「頑張る」の一環ではないけれど、そのあたりの「快適なゾーン」から、抜け出す時期かもしれないなあと思っている。

 

■選び直す勇気

アドラー心理学ではライフスタイルは子どもの頃に採用されるものの、採用し直す、選び直すことが可能だと説く。

 

僕は、明日から一足飛びに、誰とでもニコニコ話して、アメリカンジョークを飛ばすようなご陽気さんにはなれないと思う。でも、少なくとも「人見知り」の看板は外す時期がきたなと思う。

 

人と関わらずにいよう、という決意を翻さない限り、自分を肯定的に見られない。裏を返せば、自分を肯定的に見られなければ、人と積極的に関わることは難しい、とアドラー心理学、あるいは著者の岸見一郎氏は言う。

 

■まさに「嫌われる勇気」

で、ここで「嫌われる勇気」なのだ(本書は読んでないけど)。自分を認めて、肯定的かつ自由に生きた際、他人との軋轢が生まれる可能性は否定出来ない。

 

そのとき、自分を抑えてしまえば、軋轢は生じない。ただ、それは今までとは変わらない。

 

まず、「自由な自分を生きる」。そして、その結果起こる(かもしれない)軋轢の責任は自分で取る。そのことも引き受ける決意をする。そのことこそが「嫌われる勇気」なんだろう、と思う。

 

つまり、アドラーのメッセージは「自分を生き切れ」ということだろうと思う。