失敗しよう、そうしよう、の境地

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最近のマイブームは「映画」と「自転車」と「禅」 

 

■運がいい僕について

自分でも、ブログに書いたか書かなかったか、もう忘れてしまっているところもあるのだけれど、良い機会なのでもう一度書きます。

 

僕は非常に運がいい。というか、ラッキーな人生を歩んできた、と思っている。

 

例えば、小・中学時代に絶望的なほど算数・数学が嫌いで、高校すら3科目で入れる、決して偏差値が高くない高校を選んだにもかかわらず、結果として大学まで卒業できていたり。

 

大学入試でも、一浪して不退転の覚悟で臨んだ(はず)の受験にことごとく失敗し、最後の望みが潰えた・・・!と思われた翌日に、思いもよらない補欠合格の通知が舞い込んだり。

 

まあ、運が良いというか、ラッキーな星の下に生まれているなとつくづく思う。

 

ただ、だから、かどうかは分からないけれど、よく言えば慎重、悪く言えば臆病な性格だった。その割に、何の根拠もなく「東京六大学のどこかには受かるだろ」と安易に考え、滑り止めの大学を受けないという謎の行動に出たりもする。

 

ともかく。その慎重さ、あるいは臆病さのおかげか、40歳になるまでそこまで大きな病気もせず、大けがもなく、本当に大過なく生きてきた。これは、頑丈な作りにしてくれた母と父に感謝しています。

 

■ちょっとやそっとでは死なない

んで、そういう人生を生きてきて、今だから言えるのが「ちょっとやそっとの失敗では、死にゃあしない」ということ。

 

僕は長らく「失敗しない」ことを第一優先にしてきました。あるいは「失敗してはいけない」と思い込んできた。特に社会人になってからは、冒険はせず、(比較的)堅実な人生を送ってきました。

 

でも、「失敗しない」ことは、良いことでもある一方、恐ろしいことでもあるなあ、と思います。失敗しないということは、「間違いに氣付けない」という可能性もはらんでいるから。

 

自転車に一発で乗れる人は、そういませんよね。補助輪付きから始めても、補助輪を外してから、ちゃんと二輪で走れるようになるまでには、何度かの失敗を経験することになる。

 

自動車免許もそうでしょう。大事故を起こしちゃった、なんて重大な失敗はともかくとしても、免許を取得するまでには小さな失敗を何度か積み重ねる。切り返しがうまくいかないとか、縦列駐車がどーしてもうまくできないとか、ある訳ですよ、いろいろ。

 

でも「誰か、私の代わりに失敗してくれませんかね」という訳にはいかない。「他人の失敗から学ぶ」ことは出来たとしても、それはどこまで行っても他人の失敗であって、自分に100%置き換えが効くとは限らないわけです。

 

何しろ、失敗のパターンは人それぞれに違う。つまり、自分が「失敗しやすい」パターンを経験して、そこから学んでいくことが、自分にとって一番学びになるはずなわけで。

 

■沢庵さんもこう言っている

ということを人からは以前から聞いていたのだけれど、最近実感できた。運良く、特に大きな失敗もせずにここまで来たのは良いとして、失敗してもエエやないか、という心持ちで生きたいなあ、と思い始めた。

 

で、ふと調べてみたら、こんな言葉が出てきた。

 

粗相があったからといって、別に命まで取られるわけではない。

 

安土桃山時代から江戸時代初期の臨済宗の僧侶、沢庵の言葉、とされていますが、真偽のほどは分かりません(ネットに書いてあるだけだし)。ただまあ、こういう心持ちで常にありたいな、と思う訳です。

 

引用元はこちら

 

人は、ちょっとやそっとの失敗くらいでは、死なない。死ぬような失敗をしたときは、そらもう、あきらめるしかない。「運が悪かった」と。

 

何か失敗したなあ、と思ったら、「それだけ勉強になったね、良かったね」と思える自分でありたいなと。だって、命まで取られるわけじゃないんだから。

 

生きてれば、その失敗を糧にして、成功できる日も来るだろう、そんな風に考えて生きております。