「醸された」ものの発露としての表現

 
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photo by chisako abe

 

 

■おばんです。

端から見ていて、どーしてあの人はああいう(良い意味で)発想ができるのか、ああいうものが生み出せるのか、と不思議に思うことがあります。

 

例えば、コピーライティング。取り立てて特別な言葉を使っているわけでもないのに、何やら味わい深かったり、心に響いたりする。

 

あるいは、歌詞。これも、似たようなことをテーマにしているのに、スッと入ってくるものと、そうでもないものとがある。

 

僕らは幸せなことに文字を読むことができ、書くことができます。だから、ああいうコピーや歌詞なんかも、カンタンにスススーと書けるんじゃないか?と思う。

 

でも、そうは問屋が卸さない。

 

これはなぜかと。才能?センス?まあ、それもあるとは思うけども。

 

■その人の中から「醸されて」生まれるもの

何にしろ、「発酵する」あるいは「醸す」みたいなことが行われているんだろうなー、と思う。

 

出てきた瞬間だけ見ていると、何か、単なる思いつきのように見えるけれど、実はその前には、それまでに色んなものを見、いろんな話を聞き、色んなことを感じて積み重ねてきたものがあって、それが醸されて、何らかの形になって世に出る。

 

絵でもそう、書でもそうだろう。その人が話す言葉や、行動も、同じかもしれない。

 

人が生み出す全ての何かは、その人がその人なりに積み重ねてきたものの結晶だと言えると思う。

 

裏を返せば、単なる「思いつき」や「借りてきたアイデア」には、それがない。だから、薄く感じる。

 

■とかなんとか言うものの、だ

正直な話、ひょっとしたら僕が「スゴい!!」と思ってるものの中にも、単にどこかのアイデアや発想を借りてきただけのものもあるかもしれない。僕の眼が、必ずしも正しいとは思ってはいない。

 

ただ、自分としては、できる限り自分の中で熟成し、醸したものを言葉としても、文章としても、行動としても、出していきたいなぁと思う。

 

むろん、どこかから借りてこないと、にっちもさっちもどーしょうもないこともあるだろうけど。

 

なお、当ブログは(今のところ)私の中にあるものを醸して、ひねり出してお送りしております。