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20170125_間違いも失敗も

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■「全然おもしろい」の是非

糸井重里さんと、国語辞典編集者の飯間浩明さんの対談を読んで、いやー、面白いなぁと思った。
 
 
「言葉は生き物」、「時代に応じて変わるもの」というと陳腐だけれど、ホントに使い方が色々変わる。
 
確かに、僕が子どもの頃は「ガチ」なんて、そんなに使わなかった。そのうち、「これ、旨いわー。セメントだわー」とか、若者たちが言う日が来るんだろうか(たぶん来ない)。
 
さて。その中で「全然」の使い方について言及があった。僕が子どもの頃は「全然~ない」という使い方が「正しい」とされていた。この記憶はある。一方、夏目漱石の小説『坊ちゃん』では「生徒が、 全然 悪いです」という使用例もある。「全然+肯定」も、伝統的な用法としてあったらしい。
 
ところが、「全然+肯定」の表現がなぜか廃れて、いつの間にか「間違い」ということになってしまった。元々は、「どっちもあり」だったのに、だ。
 

■人の「間違い」は、指摘したくなるもの

こうなると、「全然+肯定」を「間違っとる!」と指摘したがる人が出てくる。「言葉が乱れとる!」みたいな。まあ、そう言いたくなるのも、分からなくはない。だって、人が間違ったことを言ったりやったりしていたら、「違うよ」と言いたくなるのは、まあ、誰にだってある心の動きだと思う。
 
かく言う私だって、同居している家人が歌を歌っていて、歌詞を間違えていると「違うよ」と言いたくなるし、結構高い確率で指摘してしまっている。別に、家で歌詞を間違えたところで誰も迷惑を被らないのに、だ。
 
僕だって、気持ちよく歌っている家人の歌をわざわざ止めて、「歌詞が間違ってる」と指摘することにメリットがあるとは思っていない。にもかかわらず、何となく言いたくなってしまう。ともかく、そういうことってあるよね、とは思う。
 

■許容する人、再び

でも、それも理解した上で、僕としては「間違い」も 「失敗すること」も 、ついでに「ブレること」も 「訂正」も 、全て許容する人でありたいなあと思う。
 
以前の僕は(これは何度かブログにも書いたけれど)、「間違えてはいけない」と思ってきた。社会通念上、正しいことや、常識的に正しいことをすることが、良いことだと思ってずーっと生きてきた。だから、発言も「間違いのないことを言わなくてはいけない」と思っていた。
 
でも、「100%間違いないこと」なんて、世の中にどれほど存在するか?と思ったら、そんなことをチマチマ考えることが無意味だなあ、と思うようにもなってきた。だいたい、間違いのないことだけを言おうとしたら、こんなブログ書いていられない。
 
講演会なんかで良く「何か、質問はありませんか?」なんて司会者に聞かれることもある。そんなとき、あ、これってどういうこと何だろうと思って質問しようかなと思うのだけれど、あああ、でもこんなこと聞いたら全聴衆と講演者の時間を無駄に使っちゃうんじゃないかとか考えて、結局手を上げずに終わるなんてことが良くある。
 
あるいは、何か質問に答えようとして、的確な表現が思い付かなくて、黙り込んでしまうようなこともある。あるいは、調子に乗ったことを言ってしまって、後から、ああ、あんなこと言うんじゃなかったなあ、と思うことも多々ある。
 

■間違ったって、ブレたって良いじゃない

「間違ってはいけない」と考えると、息苦しくなる。間違えてはいけない、と考えるから、どうしたって安全策を選択する。そうすると、面白くなくなってくる。それよりは、間違えたことを言ったりやったりしたとしても、「あ、間違ってた!」と訂正できる世の中の方が良いと僕は思う。

 
同じような理屈で、「ブレる」ことがあっても良いと思う。
 
第一、人間生まれてから死ぬまで、一点の曇りも迷いもなく、自分の道をスパーっと歩き続けられる人なんて、そうはいない。迷ったり、悩んだり、考え込んだり、こっちだ!と思って進んだ道が全然違ったり・・・。色んなことが起きるのが人生だ。
 
だったら、一度信じた道を離れてみるのも良いかもしれない。その結果、「やっぱりこっちだった」と、元の道に戻ってもいい。そこからまた、別の道を進むのだっていい。一度決めたことを修正も訂正もできない。一度の過ちが致命傷になるなんて、ちょっと厳しいし、つまらない。
 
間違いを恐れて広がりのない、面白くもない日々を過ごすよりは、たとえ失敗したり、ブレたりしたとしても、その時々の自分のココロに素直に生きられたら良いんじゃないか、と思う。
 
だから、少なくとも僕は、間違いをチクチク指摘したり、攻撃する人になりたくない。あるいは、間違えた人や、ブレる(ブレた)人を糾弾したくない。
 
「ま、そういうこともあるよね」と、温かく迎え入れたい。そういう人でありたいなあと、つくづく思う。