20170111_スピード


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photo by  chisako abe

 

■と、言いましても

キアヌ・リーヴスでも、真心ブラザーズでもない話。ましてや、めっさ速く泳げる水着を作ったメーカーでもない。

 

何にせよ、スピードは早い方が良い、とされる。そりゃまあ、そうですよね。時速50キロしか出せない車と、150キロ出る車とが同じ値段なら、150キロ出せる方が良い氣がするし、新幹線もこだま、ひかり、のぞみが全部同じ値段なら、まあ、のぞみに乗るかなぁ、というのは自然でしょう。

 

メールやLINEだって、なかなか返事が来ないよりはレスポンスが早い方が嬉しい。仕事も、遅いよりは早いに越したことはない。

 

確かに「スピードが早いこと」には、価値があると思う。

 

■ちょっと考えてみてごらん

例えば、メール。今送ったものがすぐに相手に届くなんて、ちょっと前は考えられなかったことでしょう?昔はテキストですら郵送で、届くのに早くても中1日はかかっていた。

 

江戸時代なら、飛脚が快足を飛ばしても、次の日までに大阪あたりに文が届くなんてことは考えられなかったはず。

 

それが、いまや海外にいる人とだって、リアルタイムで連絡が取れる。しかも、とても低コストで。

 

牛丼屋に入って注文すれば、ものの1分もかからずに、目の前に牛丼が運ばれる。コレってスゴいことだよね、と思う。

 

電車や車もそうで、自分の足でだと1日がかりでたどり着けるかどうか、という距離を楽々、しかも素早く移動できる。フツーに乗ってるけど、スゴいことですよね。

 

■慣れとは恐ろしいもので

しかし、人間恐ろしさもので、どんどんそのスピードに慣れていく。昔なら、その日のうちに東京から名古屋くらいまで行けたら「めっさ早い!」と感動していたのに、だんだん「もうちょい早くならんの?」となってくる。

 

文のやり取りだって、昔は1週間以内にお手紙の返事が来たら、早いなぁと思ったと思うけれど、いまやメール、LINEなんかだとさらに、レスポンスのスピードは上がっている。

 

そういうスピードの上に、いろいろな物事を載っけてて行くから、そのスピードが落ちたり、ズレたりすると、その上に載せたものがぐらつく。

 

例えば、電車は普通に早く走るものだと思ってみんなが動く。だから、遅れたり、止まったりすると多大な影響が出る。タボーなビジネスパーソンは大事な商談に遅れる!とおかんむりになる。

 

LINEに慣れた人たちは、既読になったらすぐに返事が来るものだ、と思う。でもなかなか来ないと、「アレ?なんか変なこと書いた?」とか思い始めたりする。それで、人間関係がおかしくなったりする、かもしれない。

 

ホントは作るのに10時間かかるものを、5時間で作れれば、倍作れて儲かる。そりゃそうだ。でも、スピードを上げたことで失われたものも、ひょっとしたらあるかもしれない。

 

■早けりゃ良いってわけじゃない

だからって、僕は何も「何もかもスローダウンすればいいのだ!」と言うつもりはない。結論を急ぐな、君よ。

 

現状、確かにスピードが早いことに越したことはない。仕事は早い方が助かるし、どっちみち乗り物の中でじっとしてないといけないなら、そりゃ時間は短い方が良い。

 

ただ、時と場合によっては「時間がかかる」ことをきちんと体にしみこませた方が良いこともある、と思う。

 

例えば、いつもは電車で行くところに、歩いて行ってみる。すると、こんなにかかるのか、と改めて思う。昔はそのスピードが当たり前だったのだ。

 

あるいは、餃子やカレーをイチから作ってみる、っていうのも良いかもしれない。当然、皮も、スパイスも調合して。

 

要は緩急だよ、と言いたいのだ。元オリックス星野伸之投手のように、90キロのスローカーブがあるからこそ、130キロのストレートに振り遅れたりする。

 

あれ?何の話だ。要するに、たまにで良いから、スピードを落として生活してみてはどうかね?ということだ。きっと、スピード感溢れる普段の生活に驚き、ついでに感謝があふれるはずである。少なくとも、僕はそうだったから。