私の私による私のための映画&小説『永い言い訳』の感想


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先にお断りしておきますが、この記事は、私の私による、私のための映画評のような、ただのチラシの裏の落書きです。が、ブログに書くからには、読んでほしい。そんな揺れ動くおじさんゴコロをくみ取っていただけるとありがたいです。では、行ってみよ。
 

■小説を映画化することの難しさ

小説の映画化、というのは昔から良くある。んで、一時期、原作を読み、映像作品を見るというのを良くやっていた。どちらが先になるかはケースバイケースですけれども。
 
大体、小説を読むときには、ある程度自分の頭の中でキャスティングやイメージを作って読むわけです。そのイメージとかけ離れすぎていると、映像作品にスッと入っていけないし、キャスティングは良いんだけど、そういうカット割りじゃない、なんてこともある。それなら、映像作品を見てから小説を読めば、そういうイメージで読めるんじゃないかと思ったりもするのだけれど、意外とそうでもなかったりして。

そんなこともあって、原作よりも映像作品の方が好き、というケースはとても珍しい。『八日目の蝉』はとても良い映画だったけど、原作の圧倒的な迫力には敵わなかった。例外で言えば、『告白』は映像作品の方が好きだなあ。あの作品で、僕は松たか子を「松さん」と呼ぶことに決めた訳です(ホントかよ)。
 

■小説と映像作品、甲乙つけがたい『永い言い訳

そんな私ですが、「小説と映像作品、どちらも甲乙付けがたい」と思ったのが、『永い言い訳』でした。そもそも、原作を書いたのが映画監督の西川美和さんで、彼女がそのまま映像作品も監督したので、その他の映像作品とはまたちょっと意味合いが違うのですが、ともかく。

僕は映像作品を先に見ました。

僕が西川美和監督の作品が好き、というのを差し引いても、この映画は何というか、スゴいなと。

 

■二人のロクでもない男たち

主人公(衣笠幸夫)は、とても女々しいし、自己愛が強い。自意識過剰だし、打算的でもある。

その主人公が、バスの事故で妻に先立たれる。で、幸夫は、この事故で同じく妻を失った大宮陽一と出逢う。この陽一は幸夫とは対照的な存在として描かれる。インテリの幸夫に対して学はなく、妻との関係が醒めていた幸夫に対して、死んだ後も妻への愛を隠さない陽一。幸夫には子どもがいないが、陽一には二人の子がいる。などなど。

陽一も決して、素晴らしい人間とは言い難い。怒りっぽいし、子どもに対してもキツくあたるし、死んだ妻を想っては泣くような女々しさもある。

つまり、この作品の軸になる二人の男性は、すべからくロクでもない。両方とも、同じくらいロクでもない。ロクでもない部分が異なるだけで。では、私がこの作品の何がスゴいと思ったか。それは、そういう男性の「ロクでもなさ」を真正面から受け止めて、えぐり出し、描いていることだった。

西川さんは、この二人のロクでもない男性をストーリーの軸に据えて、そのロクでもなさを丹念に描いていく。映画では映像を駆使して。小説では、何人もの視点を変えるという方法を通じて。それが、映画にしても小説にしても、見事な効果を出しているのです。

そして私はこの映画を見て「ああ、これは私だ」と感じたのです。幸夫は私だし、陽一もまた、私であると。
 
この作品は誰の中にもありそうな(少なくとも、私の中にはある)ダメな部分、弱い部分、卑怯な部分をえぐり出してきて、登場人物として結実させている。これがスゴイなあと。
 

■最終的には、救われる

ホントに幸夫は最低で、クズみたいな性格の男ではある(でも、そういう側面は、観ている自分にもある)。その幸夫が(陽一の子どもたちと触れ合ったりする中で)徐々に変わっていく姿を、小説でも映画でも描いていく。
 
そして、彼は終盤近くでこんなことを言う。
 
「ぼくらはね、そんなに自分の思う通りには世界を動かせないよ。(中略)だけど、自分を大切に思ってくれる人を、簡単に手放しちゃいけない。みくびったり、貶めたりしちゃいけない。そうしないと、ぼくみたいになる。ぼくみたいに、愛していい人が誰もいない人生になる。簡単に、離れるわけないと思っても、離れる時は一瞬だ」
 
そして、こうも言う。
 
「つくづく思うよ。他者のないところに、人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ」
 
僕は何というか、こういう小市民的な悩みとか、精神状態とか、心の揺らぎや動きみたいなものが好きだし、興味があるらしい。そういうことを描いているから、この作品がとてもスゴイと感じるんだろうと思う。
 
正直、何が言いたかったんだか、まとまらないんだけど、この辺で。