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アイデアの量と質は、移動距離に比例する

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「アイデアの量や質は、移動距離に比例する」という説を聞きまして。
 
それを聴いて一瞬、「そんなことはないやろー(大木こだま・ひびき風に)」と思ったのですが、解説をされてみると、ははあん、 それはありそうだなと。
 
言い出したのが某ハイパーメディアクリエイターらしいっつうのが、氣にはなりますけども。
 
色々な考え方や解説、解釈はあるんでしょうが、私が読んだのはこの記事。
 
 

■ルーティンからは新しい発想は生まれない

同じことを繰り返す素晴らしさ、というのも世の中にはあります。間違いなく。
 
例えば、吉野家に入ったのに「今日はちょっとしょっぱめなんだけど」とか、「今日は閃いちゃったから、しょうゆなし!塩味!!」と言われても困る。あるいは「今日は鳥丼でどう?」というのも、ねえ(面白いけど)。あるいは、山手線の内回りと外回りが逆になっても困るし、「今日はノらないから」と運休にされても色々滞る。
 
自分の生活もそうで、その日暮らしを続けるのも良いけれど、定住する良さもまたある。
 
一方で、「自分を取り囲む環境を短いスパンでラディカルに変化させ続けること」のメリットも、おそらくあるんだろうと思います。私が尊敬する女性経営者は「人間の体はアンテナのようなもので、自分というアンテナをどこに持っていくかで、キャッチする周波数、いわば情報が変わる」と言います。なるほど。それはありそう。
 
逆を考えてみると、「移動距離が少ない」ということは「常に狭い範囲をぐるぐるしている」ということにもつながりそうです。行動範囲が狭いということは、それだけ生活がルーティンに近づいていく。ルーティンの良さもあるけれど、ルーティンからは、新しいものは生まれにくい。
 
吉野家の牛丼のレシピはルーティンでしょう。だからこそ、毎日同じ味が提供できる。でも、吉野家の牛丼を食べて、「今日のは革命的にウマい!!」ということはおそらくないはず。だって、同じものを使って、同じように作ってるんだから、同じ味にしかなりようがない。というか、同じ味を目指して作ってるわけだ。
 
つまり、ルーティンからは、新しい発想は生まれにくい(一応「にくい」と言っときます)んだろうと思います。
 

■「移動距離」は、心理的なものもあるのかもしれない。

私が参考に挙げた記事を書いた人や、某ハイパーメディアクリエイターの某氏は、おそらく物理的な距離のことを指していたのだと思いますが、私はあえて「心理的な移動距離」も挙げたいのです。
 
いつもはただの牛丼なのに、今日はあえてアタマ大盛にしてみる、卵を付けてみる、はたまた、豚キムチ丼にしてみる(例えが牛丼ばっかりですいません)。そういうルーティンから「敢えて」外れてみることで、見えてくる地平があるんじゃないかと。
 
あるいは、映画を見てみる。普段聞かないジャンルの音楽を聞いてみる、小説を読んでみる。そこには、自分が思いをはせなかったような世界が広がっていて、実はそこにも、新しい発想のヒントが転がっていたりするのかもしれません。
 
だからこそ、40歳を2カ月ほど過ぎた今、僕は色々な「今までにやってこなかったこと」をやってみたい。行ったことのないところに行き、食べたことのないものを食べ、触れたことのないものに触れ、知らない世界を体感する。そうすることで、今まで自分の中で積み上げてきた「ルーティン」の壁を壊せるんじゃないか。そんな氣がしています。
 
僕のブログはいつもこんな書き方なので、それすらもぶち壊そうかと思ったのですが、支離滅裂になりそうなので今日はこの辺で。アディオス!!(←精一杯のチャレンジ)