良いか悪いかの先にあるもの
(飯田橋(神楽坂)で食べたカキフライ定食。旨)
この間(といっても、だいぶ前のことだけど)、某速読教室の体験を受けてきました。
パソコンを見て、出てくる文字や文章をパッと読み取るというトレーニングをすると、速読が出来るようになるそうで。まあ、それは良いとして。
その時に、「普段から読書はするか」、「読書習慣はあるか」といったことを質問されました。
私はおかげさまで座って通勤できる身分なので、会社への行き・帰りの電車の中で、大体1時間くらい読書することが多いと答えました。すると、速読教室の先生が、こう答えました。
「それは、とてもいい習慣ですね」、「ぜひ続けられると良いと思います」
うん。ここから先は、私の器の小ささも露呈してしまうことになるのだけれど、思ったことを書きますよ。
■何が良くて、何が悪いのか
私は彼女(女性の先生でした)の発言を聞いて、まず最初に違和感を覚え、その後、その理由に氣付いて「なるほど」と思いました。私が違和感を覚えたのは、彼女に私の習慣や行動を「評価」された印象を受けたからだと思います。
私が通勤電車の中で本を読むことが「良いこと」か「悪いこと」か、あるいは「良い習慣」かどうかは、誰が決めることでもないはず。ひょっとすると、ブラック企業の上司なら「本なんて読まずに通勤時間中も仕事をしろ」というかもしれない(いや、リアル上司は絶対にそんなこと言わないけど、例え話として)。
あるいは、僕がゲーム会社に勤めていたとしたら、本を読むより、ゲームをした方が顧客ニーズをつかめる分、良いかもしれない。
■この世の全てはニュートラル
何が「良いこと」で何が「悪いこと」かを判断するのは、誰でもないし、むしろ世の中には良いことも悪いこともない。すべてはニュートラルなわけです。それを、人々がどうとらえ、どう感じるかでその人の世界は決まる。
加えて、人から自分の行動を評価されるのは、あまり気分の良いものじゃない。もちろん、彼女は悪気があって言っているわけではなくて、きっと本を読むスピードも速くなりますよー、ということを伝えかったのだろうと思う。それでも、やっぱり、行動を「評価」されたように感じるのは、あまりうれしくない。
これが例えば、「へえ、良いですね」だったらどうだろう。趣がグッと変わる気がしませんか。ここで言ってる「良いですね」は、想像するに、「共感」だからだ。
(私)「通勤電車が空いてるから、よく読書します」
(相手)「へえ、良いですね(電車が空いてると、本も読みやすいですよねー)」
同じ「良い」という単語を使っているのに、伝わるニュアンスが変わってくる。
■好きか嫌いかはある。良いか悪いかはない
でも、私も気付かずに同じことをしてるんだろうな、とも感じます。無意識のうちに、「コレは良いこと」、「コレは良くない」とラベリングしてるんじゃないかと。
いや、自分が「好きか、嫌いか」、「共感出来るか、出来ないか」は当然あるし、変えたり隠したりする必要はないと思う。ただ、何かの基準に合わせて「良いか、悪いか」、「優れているか、劣っているか」については、ほんとにいらないなと。
例えば。仕事をしないで、女性に養ってもらっている男性がいるとする。その状態やその人自身を、私が「好きかどうか」、「自分もその状態になりたいか」はある。一方、「それが良いことかどうか」、「ヒモみたいな生活なんてみっともない」とか言い出すと、評価になってくる。
■君は何を信じる?
この世の中に、絶対的に「良いこと」も「悪いこと」はない。例えば浮気だって、社会通念上その方が何かと良いからそうなっただけで、平安時代にはそういう発想すらなかった(んじゃないかな)。
常識や正義は、 時代とともに移り変わる。ただ、今ココにいる自分の感情や気持ちは、間違いなくある。
さて。どちらを信じましょうかね。