自分を知るということ

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(立会川のセンベロ。名店。)

 

■ドリップコーヒーとの再会 

このところ、会社で缶コーヒーを飲んでました。

 

以前は「コーヒーのカフェインくらいで眠気が醒めるかよ!」と思ってたのですが、案外醒めることがわかり(笑)、リフレッシュと目覚ましのために飲んでたのです。

 

んで、ふと思いついて、カップにセットして、1杯ずつドリップできるやつ(説明力の低さよ)、そうそう、『モンカフェ』みたいなヤツを見かけたので、試しに買ってみたのです。

 

で、カップにセットして、お湯を注いで、飲んでみた。

 

何コレ美味しいやん・・・。

 

僕はどちらかというと味にウルサくない方だし、違いの分からないオトコなのですが(自信を持って言うことじゃない)、それでも、缶コーヒーと比べてドリップしたてのコーヒーは美味しい。

 

ここから、またマメ挽きたてとか、水がどうだとか、 こだわっていけばいくらでもこだわれるのはわかってるんですけども。

 

未知との遭遇

では、缶コーヒーを飲んでない状態でドリップしたコーヒーを飲んだとしたら、どう感じただろう?と考えました。

 

「やっぱり美味しい」と感じられたかどうか。それなりに美味しいとは思ったでしょうが、新鮮な驚きがあったかどうか。

 

別に缶コーヒーを悪く言うつもりはないし、アレはアレでとても便利だし、良い側面もあると思う。でも、わたしの好みからすると、ドリップしたコーヒーの方が美味しかった。

 

そこで私は、こういうことなのか、と思ったのですよ。

 

ロクでもないこと、イヤなことが起きると、我々はそれを回避しようとする。でも、ロクでもないこと、イヤなことが全くない状態だと、「何が自分にとって嬉しいことか、楽しいことか」が見えにくくなる氣がする。

 

あるいは、自分の知らないことに足を踏み入れてみる。ひょっとしたらそこには、今まで自分が「イイ!」と思っていたもの、こと以上に、自分にとってイイもの、嬉しいもの、しっくり来るものがあるかもしれない。

 

■自分を知るための「チャレンジ」 

人間、どうしても今までの経験に従ってしまいます。僕もそうです。 メシを食うにしても、知らない個人店にチャレンジするよりは、 知ってるチェーン店を選んでしまう。なぜなら、失敗はないから。だけど、そこには「新たな広がり」はないわけです。

 

チャレンジしてイヤな目に遭うよりは、間違いない世界でノホホンとしていたい。自分の好みはコレ、というのは、自分を知ってるようで、実は知らないのかもしれない。

 

私は、自分を知るためにこそ、新しい「何か」にチャレンジしたいなと感じたのです。

 

イヤな目に遭えば「そうか、今までの世界は恵まれてたんだ!」と氣付くし、あるいは今まで以上に自分にとってピッタリくる世界が広がってるかもしれない。

 

「自分を知る」と考えると、ついつい自分の内側に注目するけれど(いや、もちろんそれはそうなんだけど)、プラス、自分の環境や嗜好・思考を疑って、敢えて変えてみることも必要なのかもね、と。

 

「これは違うかなー」と思っても、何かピンと来るものがあるならやってみる。 それから、自分に確認する。そうすることでこそ、より深く自分を知れる氣がするわけです。

 

残り少ない2016年ですが、改めて、自分が今まで足を踏み入れてなかった領域に踏み出してみようかな、と。