お互いさまを生きる


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(朝の飛行場。朝の時間帯が最近好きです)

 

■両腕をぶんぶん振り回して、人に当たらない範囲でやるのが自由

という話(というか、考え方か)を聞きました。あーなるほどねーと思いつつ、そう考える人がいても全く構わないけれど、「私はその説は採らない」と思いました。

 

このお話は要するに「人に迷惑がかかるような自由は、ただの自分勝手だろ」ということを言いたいんだと思います。そのご意見も、よくわかる。

 

■生きてるだけで大迷惑

しかし。私が最近思うのは「人様に迷惑をかけちゃいけない」なんて考え始めたら、生きていけないなあ、ということだったりします。

 

極端な話をしますが、我々は酸素を吸って二酸化炭素を吐いて生きています。その時点で、他の人が吸えたかもしれない酸素を吸っちゃってる訳で、ご迷惑をかけてると言える。今はありがたいことに酸素がふんだんに吸える状態ですから気付きませんが、酸素が有限だとしたら、どうでしょうか。

 

それに、人が生きる上では何か食べるでしょう。動物や魚の命をいただいて生きる。ウム。動物や魚にとっちゃ良い迷惑です。穀類や野菜も同じこと。生き物の命をいただいていることには、何の違いもないはずです。

 

もっと言えば、生まれてくる前にはお母さんのお腹の中でご厄介になってたわけでしょう?少なくとも、お母さんには迷惑をかけて生まれてきたわけだ。

 

と、考えた結果、私は「人に迷惑をかけちゃいけない」とは思わなくなりました。人間、生きて行くには誰かに何か迷惑をかけるもんだと思うのです。あくまで私は、ですが。

 

■迷惑より「頼られるヨロコビ」

人は少しずつ人に迷惑をかけて、人からも迷惑を被って生きるものである、という論考を、確か、内田樹さんの著作で読んだ記憶があります。

 

私も以前は、人に迷惑をかけたり、頼ったりするのが大の苦手でした。人は自立しなくてはならないし、人の行為に甘えるべきではない。そのように考えていました。

 

未だにその感覚は残っていますけれど、でも、最近は迷惑をかけても良いじゃないかと思うようになりました。そのせいか、人からの迷惑にも寛容になれている氣がします。

 

あと、自分について言うならば、人からの迷惑は思った以上に迷惑でもない。むしろ、頼ってくれた嬉しさを感じます。自分にも背負えないような迷惑(例えば、100万円貸してくれとかさ)だと分からないですが、ちょっとした迷惑ならば屁のつっぱりでもないし、むしろ頼ってよ!と思う。

 

■恩送りという考え方

ある程度、人からのご厚意をありがたく受け取って、何らかの形で次につなぐ、というのはとても良いなと思っています。言わば「恩送り」ですね。頂いたご恩を、その人に返すだけではなくて、別の人に、別の形で渡す。

 

それこそ、「情けは人のためならず」だよなぁと思うのです。

 

一人ひとりが自立して、自分のことは自分で全てする、出来ないことはお金を払ってサービスを受ける。もちろん、そういう世の中もアリだとは思います。ある程度、そういう仕組みがあった方が、暮らしやすい。

 

ただ、私が今良いなと思うのは、ご恩や感謝が循環する社会。お金でサービスを買うのと、「お互いさま」の世界で、迷惑を少しずつかけあって生きる社会。その両方がある、ハイブリッド状態くらいが、今はいい感じかなと、私は思っています。