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教えることよりも伝えること

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(マシライス。)

 

人はみな、かどうかは知らんが、少なくとも私は、「教えたがり」なのだということに気付いた。

 

自分が知ってることを相手が知らないと、教えたくなる。自分がある程度知ってることを相手が知らないようだと、「それはさぁ」ってな感じで、ついつい言いたくなる。

 

■子どもにモノを教えたいおじさん

一見、子どもは何も知らない。世間のことも、社会のルールも、漢字の読み方も、九九の計算も(程度の差はあるが)知らない。

 

だから、教えたくなるわけだ。人がお話してる時は、静かに黙ってるもんだ、とか、世間は世知辛いもんだ、とか、「興部」はなんと読むかとかを、ついつい教えたくなる。聞かれてもいないのに。

 

あるいは、形を変えて「4×8は?」とか、「『音威子府』」は何と読むか?」とか「山のフドウ、炎のシュレン、風のヒューイ、雲のジュウザ。ハイ、南都五車星残りの一人は?」とか、クイズを出したくなる。

 

最後のは単なるオマエの趣味だろう、というクレームは受け付ける。そのとーり。

 

■教えない学校があるらしい

でも、子どもたちにとっちゃ、知ったこっちゃ無いのかもしれない。子どもたちは、今知らなくても良いことには、興味を示さない。でも、自分の興味のあることに関しては、ウルサイほど聞いてくる。こちらが知らんがな、と思うようなことでさえ。

 

ここから先は話2割くらいで聞いていただきたいのだけれど、確か(すでにあやふや)内田樹の本を読んだとき、「先生側からは一切教えない教育」というのを、どこかの国(だったか、機関だったか)で実践しているという話を聞いたことがあります。

 

子どもたちは学校に来るのだけれど、別に「教育」をしない。好き勝手に遊んだり、本を読んだりする。大人は一応いるけれど、進んで何かを教えたり、指導することはない。んで、子どもたちの側から「これってどういうことよ?」と大人たちに質問があった時、教育のプログラムが始動する、らしい。

 

例えば「どうしてモノは上から下へ落ちるのか」という疑問に対しては引力の法則について、「我々はなぜ生きているか」については、哲学や生物学的アプローチで教える。知りたいと思うまで、待つんだそうな。

 

そんなことをして大丈夫かいな・・・と思うけれど、大丈夫らしい。しつこいようだが、話2割で聞いてください。でも、個人的には面白そうだなと思う。答える方も、それなりに準備が必要だけれど。

 

■大人への教えたがりは、諍いを生む

子どもに対しての教えたがりなら、まだまあ、良いかなという気もする。周りからも「子ども好きなのね」とか「教育熱心でステキー」とか言われるかもしれない(二つ目のは特に希望的観測)。子どもたちは良くできたもんで、自分が興味なければキレイにスルーする。

 

一方、大人に対しても、同じようなことをしているんじゃないかと思う。思い当たる節はある。

 

「あの人は非常識だ」、「あの人は空気が読めない」、「あなたのためを思って言うけど云々」。いや、確かに知らないと損をすること、知っておいた方が良いことについては、教えてあげた方が親切かもしれない。

 

でも、世の中には「知らなくても良いこと」もあるし、「その人にとっては真実でも、他の人にとってはそうでもないこと」もある。人によって、物事の重要さは異なる。

 

私は、並んでる列に横入りするのは好きではないのでやらないけど、ある人は「横入りして、文句言われなきゃラッキー」と思うかもしれない。そうやって生きていくことが、ひょっとしたら、その人の中では「真実」であり「正解」かもしれない。

 

自分にとって正しいこと、意味のあることが、他の人にとっても必ずそうだとは限らない。なのに、人にああだこうだと言いたくなる。だから、衝突する。

 

要は、教えようとするのを止めたら良いんだと思う。自分はこう思う、以上終了。これならば、相手と意見がぶつかり合うこともない。お互いを尊重して生きられる。

 

人に教えてあげられることなんて、世の中にそう多くない。そう思います。