40にまつわるエトセトラ

■アラウンド40なう。

まもなく(この1週間くらいの間に)めでたく40歳になります。オギャーとこの世にやってきて、はや40年。おかげさまで40周年。企業なら、記念セールくらいしても良いところです(しませんけど)。

 

あ、勘違いする人がいると思うので先にお伝えしますが、今日(ブログ更新日)は私の誕生日ではございません。なので、おめでとうございます!!と言っていただいても、芳しい反応は出来ませんので、悪しからず。

 

■40年生き続けてきたってことは。

しかし、振り返ってみますと(最初の数年は思い出せませんが)、ホントにありがたいなあ、奇跡的だなぁ、という心持ちでいっぱいになります。

 

ここまで関わって下さった方々。友人、知人、一緒に仕事をしてくれた、あるいは学んでくれた皆さん。

 

約40年間、私の食料になってくれた野菜、魚、動物、卵などの皆さん。その他、衣類やら何やら、様々な形で支えて下さった生物、微生物、無生物の皆さん。

 

そして、祖先の皆さん。特に両親、家族。それから、半分まではいかないけれど、長年一緒に生きてきたパートナー。

 

大げさですが、この世のありとあらゆる人々や物事に、ほんとうにありがとうございますと言いたいです。

 

これだけ長い間、生き続けられていることに、驚きと感謝の思いでいっぱいでございます。

 

■年齢とは何だ?

会社の先輩がちょうど10歳年上で、要するに今年50歳になりました。

 

彼にとっては「30代から40代になるのはまだ、そこまでではなかった。でも、40代から50代になるのは、結構重たい」と言ってました。もちろん、個人差はあるでしょうけど。

 

一方、同い年の友人は「もはや30代後半くらいから、年齢という概念がなくなってきたから、40代になろうとならなかろうと、あんまり関係ない」と言います。

 

うーむ。私はまだ、年齢に囚われているようで、40歳になる自分、というのを上手く捉えられてはいないのです。年齢、というものに対する心理的ブロックがあるような気もします。

 

この間、自宅のマンションで少年が「こんにちは!」と元気にあいさつしてくれ、一緒にエレベーターに乗り込んだら「何階ですか?」と聞いてくれた。面白いなあと思ったので、「いくつ?」と聞くと、「10(歳)」だと。そして彼は、途中の階で降りていったわけですが。

 

30歳の時に子どもが生まれていたら、ちょうどそのくらいかと、その時妙にリアルに感じたのですね。

 

■で、何が言いたいかっつーと。

人生を約80年と考えるならば、ちょうど折り返し地点を迎えたあたり。さて。ここまでの40年間、私は何をし、いかに生きてきたのかと、立ち止まって(あるいは、流されるがごとく)考えます。

 

両親の愛情を十二分に受け、あらゆる面で恵まれた家庭で育ち。それなりの学歴を得て社会人となり、それなりに仕事をし。ユニークかつ愛すべきパートナーを得て、自慢に受け取られるかもしれませんが(そして、多少自慢なのですが)、幸せな人生を送ってきたわけです。

 

さて。考えるべきはこの先で。私はいかに残りの人生を生きるべきかと。幸せな人生を送ってきたのだから、その幸せを少しでも他の人にお分けするのがスジではないのか?オマエは自分が幸せならば、それで良いのか?と、自問自答することもあります。

 

結論は、「まずは自分が幸せであることが大前提だよね」でした。この先も、まずは自分が幸せに生きる。結果、まわりの人も幸せになる。

 

以前、当ブログにも書いた、ガンジーの言葉。

 

Be the change you want to see in the world

 

この言葉が、再びアタマの中を駆け巡っているのです。

 

「あなたが見たい変化に、あなた自身がなりなさい」。

 

幸せな世界を望むならば、あなた自身が幸せを噛みしめなさい。そこから、全ては始まる。

 

私は大金持ちでもないし、有名人でもない。昔描いていた夢を、今はまだ、全て叶えたわけでもない。人から見れば、平々凡々たる人生かもしれない。

 

でも。声を大にして言いましょう。

 

「私は幸せです」と。

 

あ。チータこと水前寺清子の名曲、「365歩のマーチ」についても触れようと思ったのですが、思いの外長くなったので、それはまた別の機会に(予告)。