できるかどうか、よりも、やりたいかどうか

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 (函館で食べた塩ラーメン。うまい)

 

「天からのメッセージ」みたいなものを信じてるかというと、非常に微妙なところでして。

いきなりスピリチュアルな書き出しでアレですが。

まず、この世のどこかに全知全能のカミサマみたいなものがいて、僕がやるべき「何か」をパンパカパーンとお知らせしてくれる、とは思ってません。

でも、自分が生きる中で、感じること、考えることの中から何らかのメッセージを得る、ある意味「読み解く」ことはあると思います。

 

最近、僕は「受け手の反応や評価に関しては、出し手が責任を取る必要はない」ということを考え始めました。うーん。表現がこなれてない。てなことをウニャウニャ考えていたら、こんなにフレーズがアタマに浮かびました。

 

「出来るか・出来ないかではなく、やりたいか・やりたくないかで考える」。

 

例えば。僕は人前で歌いたいとする。それならば、歌えば良い。以上。「上手く歌えるかな」、「聴いた人はどう思うかな?」なんてことは、考えなくて良い。

うーん。正確に言えば、少しでも上手に歌うための努力はするとは思いますよ。その方が、自分が楽しいし、達成感もあるから。だけど、舞台に立って、歌った後の反応は相手に委ねればいい。というか、委ねるしかない。

 

僕の歌を聴衆が聴いて、「ヘタクソ」と思うか「味のある歌」と思うか「いい声だ」と思うか、「感動!」というかは、相手マターなわけです。その反応について、僕が何かを考えたり、思い煩うことはない。さらに、その反応を心配して、自分が歌いたい気持ちを抑える必要は全くない、とも。

 

以前の僕は「人に聴いてもらえるほどの歌を歌えないから」と、その舞台に立つことを拒否し続けてきました。「お聞き苦しいですから」とか言いながら。どんなに周りが「歌ってみなよ」、「歌っていいんだよ」と言ってくれても、拒否してきました。

 

でも、僕の場合は、その拒否の裏側に邪心もあった気がします。

最初から自分の責任で「とりあえず、一曲」というほど、自分に自信がない。でも、人前で歌ってみたい気持ちはある。だから、周りの人が誘ってくれたのに乗じて「じゃあ・・・」てな具合で、歌う。

ひょっとしたら、その裏には、失敗しても「いや、みんなが歌えって言うから」と、逃げ道を造りたいという計算もあったかもしれません。

 

ご承知の通り、「歌」はあくまでも例えです。ありとあらゆることに関して、そういう意識があったなぁと今は思います。

人から推されるまでは、立候補せずに引っ込んでおく。で、呼ばれたら渋々(のふりして)出て行く。これが僕の行動パターンでした。これはもう、やめようと。自分がやりたければ、やる。

 

何かした結果に対する評価や批評は受け止めればいい。でも、そのことを先回りして考えるのはやめよう、と。

 

ですから、今後私は様々なシーンで、赤っ恥をかくこともあるでしょう。人から散々な評価を受けることもあるでしょう。もしかしたら、この世デビュー40周年の人間としては、ちょっとしんどい場面もあるかもしれない。

 

でも、それは自分が選んだこと。人からの評価や反応は「受け止めて」、自分の感覚や信念を信じよう。そんなことを考えています。