手放す

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握りしめていたものを、

手放す。

 

あきらめるでも、捨てるでもなく。

ただ、手放す。

 

こうに違いない、

こうであってほしいと思うものを

静かに手放す。

 

握りしめているということは

それだけ大切で、必要で

自分が失いたくないもので。

 

でも、だ。

握りしめているうちは、

そこにこだわりが生まれる。

 

それは良いでも悪いでもなく。

 

握りしめ続けるのも良い。

そこにこだわり続けるのも良い。

 

ただ、握りしめているうちは、

そこに留まり続ける。

 

それも、決して悪いことじゃない。

それを望むか、望まないかだけで。

 

ロッククライミング

ボルダリングのように。

 

手を離さないと、

次に進めないこともある。

 

そんなことを考えている。

 

手放すには、勇氣がいる。

 

大切に大切に握りしめていたもので

想いがあればあるほどに、

手放すことに躊躇が生まれる。

 

光と闇。

喜びと悲しみ。

嬉しさと悔しさ。

希望と絶望。

「ある」と「ない」。

 

そうなれば、そうなっただし、

そうならなければ、そうではない。

 

両方ある。

 

そう、両方ある。

どちらかでなければならない、

なんてことは、ない。

 

ようやく、その境地に

至れたような氣持ちでいる。

 

もう一度言うけれど、

あきらめるでも、捨てるでもなく。

 

握りしめていたものを、

手放す。

 

勇氣と感謝と

心の底からの愛と共に

手放す。

 

そして、次のステップへ進む。

 

誰かに何かを伝えたいとか

そんなんじゃなく。

自分の整理のためのブログ。

 

読んでくださって、ありがとうございます。

 

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寂しさ

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寂しかったんだな、と

ここにきて急に思った。

 

そうか、ぼくは寂しさを埋めようと

していたのかもしれない、と、

何だか妙に腑に落ちてしまった。

 

ぼくには

大切な仲間がいて、

友人もいる。

 

寂しさを感じることなんて

ありえないと思っていた。

あるいは、あってはいけない、とも。

 

でも、心のどこかに、

寂しさがあるのだと、

いまはわかるし、認められる。

 

全ては認めるところから始まる、

と最近特に感じている。

 

ネガティブな感情は特に。

認めずに蓋をすると、

大概良いことにはならない。

 

ぼくはこのところ、

寂しいとか、哀しいとか、

辛いとか、苦しいとか。

 

そういう感情を認めずに、

どこかでそういう自分に

バツを付けていた、と思う。

 

嫉妬もそう。悔しさもそう。

劣等感もそうだし、欠乏感もそう。

認めてほしい、褒めてほしいもある。

 

そういうものを感じてはいけない、

というか、そういうものはない、と

思い込もうとしていた感じがある。

 

いま自分を振り返ってみると、

それは要するに、そういう感情を

認めていなかった、

ということだとわかる。

 

と、こんなことをブログに書くぼくは

かなりの構ってちゃんだし、

寂しがり屋なのだなとも思う。

 

それも認める。

 

大切なのは、その感情をどう取り扱うか。

 

そういうもろもろは、

誰かが解消してくれるものじゃない。

と、いまは腑に落ちている。

 

自分が自分を認め、許し、

大切にし、尊重し。

 

ひとに嫉妬している自分も、

力不足で、何もできなくて悔しい自分も、

思うようにならなくて辛い自分も、

腹黒い自分も。

 

まずは認めて、許すこと。

そして、さらに理想に近付くために

いまを全力で生きること。

 

自分に正直になること。

自分の感情を解放すること。

自分で自分の寂しさを埋めること。

 

矢印を、改めて自分に向ける。

ここからしか、

何も始まらないんだろう。

 

むしろ、ここから始める。

 

自分の機嫌を自分でとる。

自分で自分を最高に大切にする。

 

だからこそ、

大切なひとたちを大切にできる。

 

いつもありがとうございます。

 

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自分事


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尊敬できるひとと、

一日過ごす機会があった。

 

そこでぼくは、

自分の現在地を確認できた。

 

そのひとは、

客に対して胸ぐらを掴んで

「表に出ろ」と言い放った、という。

 

普通なら、考えられないことだ。

でも、ぼくにはそれが

響きまくった。

 

彼は、そのとき本気で怒った、

と言った。

本気で飯を食っている、とも。

 

はたして。

いまのぼくに、その覚悟が

あっただろうか。

 

なかった、としか言えない。いまは。

 

本氣。愛。

 

口ではなんとでも言える。

じゃあ、本当にそういう氣持ちで

目の前のひとと

向き合えていただろうか。

 

甘かったね、と思う。

うん。でもこれも現在地。

 

もしぼくが、同じような

状況に立たされたならば、

きっと愛想笑いをして

そういうこともあるよね、と

言っていたと思う。

 

でも、だ。

本当に真剣に、

目の前のひとの

幸せや、理想や、成長や、

そういうものに

コミットしていたならば。

 

胸ぐらを掴んででも

本氣でぶつかっていたに

違いないのだ。

 

キツい言い方で言えば、

逃げていた。

 

自分のことしか

考えていなかった。

自分事で留まっていた。

 

でも、それももう過去だ。

 

これはなにも、

客相手に限ったことではない。

 

本当に大切なひとたちと、

本氣で向き合って、本氣でぶつかる

勇氣があっただろうか。

 

これに関しては、

ほんとに申し訳ないな、と思う。

 

ぼくの大切なひとたちは、

ぼくに本氣で向き合って、

ぶつかってきてくれる。

 

それを真正面から受け止めていたか?

自分事を外して、

自分のため、相手のため、

大きく言えば世界のために

生きると決め切れていたか?

 

いまから、変える。変わる。

今日はじっくり、このあたりと

向き合っていく。

 

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守る


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振り返ってみると、

ぼくは自分以外の何かを

命懸けで守ろう、という想いを

持ったことがないのかもしれない。

 

いや、ない。

 

両親は良いも悪いもなく、

ぼくを守ってくれる存在であったし、

ぼくが守るべき存在ではなかった。

 

元奥さんもまた、

ぼくに守ってもらうような

ひとではなかった。

 

それも、あくまでも

ぼくがそう想っている、

ということだけれど。

 

地球を守るとか、

自然を守るとか、

国とか仲間とか、

そういう諸々も、

ぼくは今まで、命を懸けて

守る氣がなかったんだと想う。

 

あるいは、その覚悟がなかったのか。

 

ぼくに子どもがいれば、

その意識は変わっていた

かもしれないけれど、

天の采配でそうはならなかった。

 

いや。

ぼくの何かがそうさせたんだろうな。

 

だからぼくは、いままで、

必死に自分を守ってきたんだろう。

 

自分のプライドや、意地や、

こだわりや、美学のようなものや、

自分が自分だと想ってきたもの。

 

それを必死に守ろうとしたんだろう。

 

ここ数日、

子どもたちといる機会が多かった。

 

子どもたちは強く、賢く、

ぼくなんかよりも

いろいろなことを本能的に

既にわかっている。

 

教わることがたくさんある。

けれど、守るべきものでもある。

 

正直なところ、

ぼくは子どもたちを守るとか、

未来の子どもたちのために生きるとか、

そのあたりがピンときていなかった。

 

子どもがあまり好きではなかったのもある。

 

でも、ぼくが何かを命懸けで守る、

という意識、覚悟がなかったんだ。

 

昨日、ぼくは一度死んだ(笑)。

そして、命懸けで何かを守ることに

スイッチが入った感がある。

 

まずは、大切なひとたち。

 

大切な仲間たち。

 

大切なひとが大切にしているもの。

 

子どもたちも、もちろんそう。

 

自分の小さな自我やプライドや、

信念とか体裁とか美学とか

そんなもんは、もうどうでもいい。

 

ぼくには、ぼく自身以上に

守りたいものがあると氣付いた。

 

相手が守ってほしいと

思おうが、思うまいが、

どっちでもいい。

 

ぼく自身が、自己中心的に、

守りたいものを命懸けで守る。

 

そんなことを考えている。

 

そう想える存在がいてくれることに、

心からありがとうと言う。

 

いつもありがとう。

 

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嫉妬

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ここ最近、

絶賛モヤモヤ期だった。

 

というか。

ひょっとすると、この半生、

ずっとそこでモヤモヤ

し続けてきたのかもしれない。

 

モヤモヤの原因は、

シンプルに言えば「嫉妬」だ。

 

この感情を、ぼくは全方位的に持っている。

 

大切な仲間が輝いて見えるとき。

大切な仲間が自分を生き切っているとき。

大切な仲間がカッコ良く見えるとき。

大切な仲間に対して、敵わないなと想うとき。

 

もっと恥ずかしいことを言えば。

 

大切なひとが、誰かと笑っているとき。

大切なひとが、誰かを頼っているとき。

大切なひとが、誰かを誉めているとき。

大切なひとからの愛情を感じられないとき。

 

ぼくは嫉妬の塊になる。

そして、心を閉ざす。

 

そんなことを繰り返してきた。

 

そんな自分が好きかと言えば

そんなはずもなく。

 

カッコ悪い自分、

ダサい自分、

いやらしい自分、

イケてない自分。

 

自分をそう見て、勝手に落ち込んだ。

 

落ち込み切れば良いものを、

中途半端に隠して、

そんな自分を見ない振りをして、

体裁だけを調えてきた。

 

いま、宇宙の采配で長崎・国見にいる。

ここで、ぼくは一度死んだと思う。

 

大切なひと、大切な仲間のために生きる。

そのことに、改めて、いや初めて

許可をおろすことが出来た。

 

大切な仲間が輝いているのを見て

嫉妬しているときは、

ぼくも、そう在りたいのだなと想う。

 

大切なひとが誰かを頼っているのを見て

嫉妬しているときは、

その隣に、ぼくがいたいのだなと想う。

 

ぼくのミッションは、

大切な仲間、大切なひとのために

100%生きること。

 

それが自分本位でもいい。

自己中心的であっても構わない。

 

それがぼくという生命体なんだと

確認することが出来た。

 

嫉妬している自分を認める。

そして、そんな自分を好きでいる。

 

ひとからの見返りは、求めない。

 

もちろん、何か見返りが有れば嬉しい。

 

大切な仲間が、ぼくがしたことで

喜んでくれたら嬉しい。

 

大切なひとが、ぼくのために

笑ってくれたなら、心が躍る。

 

でも、そのためにやるんじゃない。

 

ぼくの大切なひとが、たとえ

ぼくのことを好きでなくても良い。

ぼくの方を向いてくれなくても良い。

 

そうじゃなくて。

それが欲しいのじゃなくて。

 

ぼくがぼくを生きるために、

大切なひとのために生きる。

 

それはときに、

大切なひとと

距離を置くことかもしれない。

大切なひとに

何もしないことかもしれない。

 

それは、人間的には

つらいことだ。

 

大切なひとの近くにいたいし、

何かしてあげたいし。

 

大切なひとから何かしてほしいし、

優しくもしてほしい。

 

でも。

 

本当に大切なひとを

大切にするためには、

ぼくがぼくとして生きるしかない。

 

というかね。

大切なひとはいつも繋がっていたし、

すべてをくれていたんだよ。 

ほんとはね。

 

そのことに、やっと氣がついた。

遅いけど。氣ついてよかった。

 

ぼくが大切なひとのために生きること。

そのことそのものが、もはや

ぼくにとってのギフトであり、

喜びである、と決めた。

 

そのために、ぼくは生きる。

 

いつもありがとう。

大切な仲間に。

大切なひとに。

 

心から愛を込めて。

 

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自分

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ぼくの大好きな宇宙が、

こんなことを言っていた。

 

「自分が我慢してるひとは、

ひとにも我慢を強要しがちである」

 

この言葉に、ぼくはボエーと響いてしまったのだ。

なぜならば、かつてのぼくがそうだったから、

に他ならない。

 

かつて(そう昔ではない)のぼくは、

約束は守るべきだし、

常識に反することはすべきではない。

 

自分勝手な行動を慎んで、

集団やみんなの秩序を守ることが

大切だと思っていた。

 

そのために、自分のちょっとした欲求や

ちょっとした希望なんていうのは

我慢すべきである、と思ってたのである。

 

で、自分は(ある意味好きで)我慢してたのに、

それを、ひとにも強要していたわけだ。

 

でもこれ、全てそうかもしれない、と

いまになって感じるのである。

 

ひとは、自分にしていることと同じことを

他のひとにもしがちである、という仮説。

 

例えば。

自分が何かを我慢しているひとは、

ひとにも我慢を強要する。

 

自分の氣持ちや感情を許容しているひとは、

ひとの氣持ちや感情をも許容できる。

 

自分の欠点を多く見るひとは

他のひとの欠点も氣になる。

 

自分の良いところにフォーカスするひとは

ひとの長所をよく見る傾向にある。

 

自分の実力や才能を信じているひとは

ひとの才能も信じ、応援できる。

 

自分の性格を決めつけているひとは

他のひとのことも決めつけているかもしれない。

 

自分のことが嫌いなひとは

人間全般が嫌いであることが多い氣がする。

 

自分のことを本当に愛しているひとは

ひとのことも深く愛せるのかもしれない。

 

これらは、あくまで仮説に過ぎない。

 

ただ、少なくともぼくはかつて、

自分のことが大嫌いであった。

 

生まれてこなければよかったし、

生きていても辛いし、

資源の無駄遣いになるくらいなら

いっそ死ぬかと思っていた時期がある。

 

まあ、思春期ならではの自殺願望

と言えば、そうなんだけれど。

 

にしても、自死を考えるってのは

まあまあハードではある。

 

その頃は、ぼくはひと(人間)のことが

あまり好きではなかったし、

心を許せる友人も少なかった。

 

自分のことがあまり好きではないから、

周りのこともあまり好きにはなれない。

だから、当然周りからも好かれない。

 

負のスパイラルではある。

 

ただ、ぼくは実際に死を選ぶことはなかった。

どこかで自分を信じていたし、

自分が好きだったから、なんだろうと思う。

 

それは裏を返せば、

少ないながらも信じられる、

信頼できる友人や仲間がいたから、だろう。

 

いま、ぼくは自分を

さらに信じ、認めようとしている。

 

取り組みの真っ最中と言ってもよい。

 

そうすることが、さらに深く、

他のひとを信じ、認め、愛することの

第一歩になりそうだと思っているから。

 

いつもありがとうございます。

 

 

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自然体


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自然体であることについて、

最近よく考える。

 

ぼくは、できることなら常に

自然体でありたいなと想う。

 

でも、ときにそうではない、とも想う。

 

どうしたら自然体で

在り続けられるか?と

考えてみたら、

とても簡単なことに氣付いた。

 

例えば、

好きなもの、ことを

好きだと認めること。

嫌いなものも同じ。

 

自分が心地良い状態で

居続けること。

 

心地良くいられることを

選び続けること。

 

肩の力を抜くこと。

自分の氣持ちを

ありのままに表現すること。

 

常識や、ルールや、

ひとの思惑や反応や、

そういうものに

過度に反応しないこと。

 

その上で、自分を俯瞰すること。

 

「簡単なこと」と書いたけれど、

実践するのは、簡単ではない。

 

ぼくが最近取り組んでいるのは

「自分の感情を認める」こと。

 

あ、いまぼくは嬉しいのだな、とか

これは悲しいと思っているな、とか

嫌だなと思っているのか、とか

 

もちろん、感情は複雑で、

いくつもの感情が絡み合うことも多い。

 

でも、あえて俯瞰して、

よく見てみる。

できることなら、

アウトプット、表現してみる。

 

誤解してほしくないのは、

決して、自分の感情をただ

ダダ漏れにしたい、と言ってる

わけではない(なくはないけど)。

 

ぼくらは、自分の感覚・感性に

少しブレーキを踏み過ぎている、

ように感じている。

 

ひとにむやみに「好き」と

(あるいは「嫌い」と)言ってはいけないとか。

 

自分はやりたいことがあるのに、

周りの目を氣にしてできないとか。

 

相手に「こうしてほしい」があるのに

相手の機嫌を損ねたり、

関係性を壊すのが怖くて言えなかったり。

 

そう。わかる。

もちろん、よくわかる。

 

でも、自分の感覚、感性、感情を

止めると、滞る。

 

川の水も、せき止めれば濁る。

ひとの感覚、感性、感情もそう。

 

せき止めた想いは、

どこかで濁る。

場合によっては、腐り始める。

 

川は流れるがままにしたほうが良いし、

感情は溢れ出るままにした方が、

ぼくは自然じゃないかなと感じている。

 

例えば。

もし、あなたに大切なひとがいるならば。

その想いを表現してみてはどうだろう。

 

両親や、子どもたちや、仲間や、

恩人や、愛するひとや。

 

ひょっとしたら、

照れくさかったり、

きっかけがなかったり、

日々の忙しさに流されていたり、

相手からどう思われるかが不安だったり。

 

大切なひとに、あなたの想いを

伝えていない理由も、

きっとたくさんあるでしょう。

 

それでもいい。

 

ただ、もう一度言う。

せき止めた想いは、濁る。

 

溢れる想いは、流した方が

ぼくは良いと思う。

 

これはあくまで、

ぼくの自分勝手な想いである。

ぼくが自然体であるために

やりたいなと思ってること。

 

よければ、ご一緒に。

 

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