過去といまと未来と理想との関係について


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先入観って、恐ろしいなあと思う。


唐突だけれども、KANをご存じだろうか。そう、シンガーソングライターのKAN、本名・木村和(かん)である。


たぶん、アラフォーあたりの人は「ああ、『愛は勝つ』の人だよね」と思ったはずだ。若い人は、ひょっとしたら全く知らないかもしれない。そして、ひょっとしたら「一発屋の人だよね」と思った人も多いかもしれない。


うん。確かに、ヒットチャートを賑わしたのは『愛は勝つ』だ。でも、KANさん(リスペクト)ファンのぼくに言わせれば、『愛は勝つ』は彼の意外な側面が出た一曲と言える。


彼の真髄は、明るくポップで楽しい応援歌を歌うことではなく、どちらかと言えばメロウで女々しい男心を、美しいメロディに載せて歌うところにある。


『永遠』、『まゆみ』、『1989(A Ballade of Bobby & Olivia) 』、『Song writer』、『君が好き、胸が痛い』。最近の楽曲だと『安息』も良い。ざっとこのあたりはぜひ聴いてみていただきたい。ぼくが言ってる意味が(特に文化系男子には)よくわかるはずだ。


できることなら、ぼく的青春時代に聞きまくったアルバム『TOKYO MAN』も、ぜひ皆さんに聴いていただきたい。未だに色褪せない名盤である。


そして、実はKANさん、それ以降もずっと音楽活動を続けている。というか、個人的にはそれ以降の方がよほど活躍している印象がある。


彼の音楽性は特に同じミュージシャンから高く評価されており、ミスチルの桜井さんはKANさんの曲を数多くカバーしているし、KANさんのアルバムにソングライティングで参加したりしている。また山崎まさよしとも親交が深く、「YAMA-KAN」名義でCDをリリースしてもいる。


ええと。ぼくは別にKANさん愛を声高に語りたいだけなわけではなくて(それもある)、それくらい、先入観や過去データで物事や人を見ると、いまを見誤りがちだと言いたいのだ。


○先入観や過去で今を見る

「あのときこうだった」とか「昔アイツはああだった」から、「いまでもそうに違いない」というのは、実はつながっていない。過去は単なる過去で、いま、あるいは未来とは関係がない。


「KANは『愛は勝つ』だけの一発屋」だと思い込んでいたら、いまのKANさんを正しく認識することはできない。


もう一つ例を出そう。何か月か前、駅前のラーメン屋に行ったらスープがぬるかったとする。でも、それはあくまで過去の出来事だ。ひょっとしたら、いまは厨房のバイトが変わって、アツアツを繰り出してくる可能性だってある。なのにぼくらは「あの店はスープがぬるいからなあ」と避ける。


つまり、いまがどうかではなく、過去どうだったかで判断している。もちろん、過去のデータは参考になるし、参照すべき場合もある。でも、過去といまは全く関係がないのに「これはこうだから」と自分が持っているデータで「いま」や「未来」を判断してしまう傾向にある。


同じことを、ぼくらは自分の人生でやってしまうことがある。これはもう、クセだし無意識だ。仕方がない部分はある。ぼくだってある。


でも、過去といま、あるいは未来(もう少し踏み込んで、理想と言っても良い)は、つながっているようで、実はつながっていない。過去のある時点で「A」だったことが、いまは「B」に変わっていることなんて、ゴロゴロある。


世の中の「常識」や「当たり前」だって、実はコロコロ変わっている。ぼくがタイムマシンに乗って、10年前のぼくに「10年後にはみんな小さな板みたいのを持って、それで漫画を読んだりテレビを見たり、リアルタイムでコメントのやり取りをしている」と言っても、たぶん信じない。むしろ信じられない。「スマートフォン」というものの情報が、10年前のぼくの中には全くないからだ。


○理想を描くのに、過去データ要ります?

過去を参考にしていまを見ることは、決して悪いことではない。過去起きたことは、繰り返す可能性が高いからだ。でも、それと自分の理想とは無関係だ。

 

自分の理想を描くとき、「前はこうだったから・・・」という情報を入れる必要は、ぼくはないと思っている。


いまを変えれば、未来は変わるとぼくは考えている。過去、何か望みではないことが起きたのならば、いま、それが起きないように(言い換えると、自分が望むことが起こるように)行動を変えればよろしい。それでこそ、未来が変わっていく。


ラーメン屋のスープがぬるかったのなら「ごめん、もうちょい熱くしてもらえる?」と言えば良い。そうすれば、未来は(たぶん)変わる。「いや、ぬるめのスープがウリなんで」と言われたら、初めてそこで決別すればいい(大げさ)。


先入観や常識、過去データ、固定観念といったものは、ぼくらの氣付かないところにくっ付いていることが多い。だからこそ、理想を見ていまを生きることを、ぼくは続けていきたいと思っている。

 

 

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女性が笑ってくれてれば、世の中幸せだと思う


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これは、皆さんにどう伝わるかわからないんだけれども、とりあえず敢えて出してみる。

 

最近思うのだけれど、とりあえず世の中は女性が笑っていてくれたらきっと平和なんじゃないかなあ、と思っている。

 

こういうことを書くと、女性蔑視だとか、女性をお飾りだと思ってるんじゃないかとか、なんかこう、ぼくの意図と違って捉えられる可能性があるなとも思うんだけれども、そういうことじゃない。だし、ほんとにそう思ってるんだから仕方がない。

 

例えば。お母さんがいつもニコニコしている家庭と、イライラしている家庭とで、どっちが幸せそうかと言えば、まあ,ニコニコしている方が良い感じがするじゃない。

 

なんで女性なの?なんでお母さんなの?と問われたら、ぼくはこう答える。「女性やお母さんが笑顔なら、男性やお父さんはたいていハッピーだから」。

 

あのですね、男性ってのは基本単純である。身近にいる、自分が大切にしている女性がニコニコ笑っていてくれたら、ほとんどの男性は幸せなのす。

 

これはひょっとして僕だけなんだろうか?と思うけれど、周りの男性を見ていても、ほぼそうだから、たぶん多くの男性がそうなんじゃないかなと思っている。

 

〇「嬉しい」とは、どういうことか

「嬉」。そう。女性が喜んでいれば、みんなが「嬉」しくなる。女性には、そういう不思議な力があるんじゃないかとぼくは思っている。だから、常々思うのだけれど、女性にはどう逆立ちしてもかなわない。

 

このブログでもちょくちょく出てくるハコネエコビレッジは、山の中腹にある。車が横付けできるようなところではない。人間は当然、歩いて15分ほどの山道を上がって入村する。つまり、荷物も全て人力で持って上がることになる。

 

勢い、男性は荷揚げをすることが増える。重たい荷物は、基本的に男性がよいしょ、よいしょと持ち上げることになる。重たい荷物を持ち上げて村に着いたとき、女性がニコニコ笑って「お疲れさま」と迎えてくれるだけで、ああ、やって良かったなと思う。たったそれだけのことで、ぼくは嬉しくなる。

 

ちなみに、その女性というのは別にぼくの恋人でもなんでもない。なんなら、人妻だったりすらする。

 

単純だと笑うだろうか。でも、割と真剣である。

 

〇男性の役割、女性の役割

ぼくは長いこと、男女が平等であることが素晴らしいことだと思ってきた。その考えは未だに変わっていないけれど、男女の「役割」とか「特性」ってのはあるね、と最近思い始めている。

 

どう逆立ちしても、多くの女性は多くの男性に比べて非力だし、体力がない。ここは平等とかではなくて、役割や特性の違いだ。だから、ぼくは荷揚げのとき、「平等だから女子も荷物持てよー」とは言わない。

 

「女性が強くなった」と言われることがよくある。でも実は、女性はもともと強かったんだと思う。良く言うじゃないか。陣痛と同じだけの痛みを男性に与えたら、死んでしまうとか。いや、実際あり得ると思っている。

 

だから、女性は男性をうまく使ったらいいと思う。女性がニコニコしていれば、男性は勝手に動く。勝手にあなたを喜ばせるために、色々し始める。

 

女性は、男性に勝とうとなんてしなくていい。男性は、どう逆立ちしたって女性に勝てないんだから、そもそも勝負しようということ自体がバカバカしい。男性が必死になって何かに取り組んでいる姿を見て、「がんばってるわね」と笑顔で言ってあげればいい。

 

「なんでああしないのか、こうしないのか」と指摘するのも、悪くはないけれど、妙手とは言い難い。それよりは、男性をうまーく乗せて、動くように仕向けるのが賢いやり方だ。

 

とにかく、ぼくは全世界の女性がニコニコ笑ってくれる世の中になれば良いなあと思っている。そのためには、できることはしたいと思っている。

 

大げさに言えば、それこそが世界平和の第一歩だと、真剣に信じている。


そう。もうすぐ母の日だ。

偉大なる女性に、改めて感謝しよう。

 

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素直について面倒に考えた


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「素直」であろうと思っている。


ぼくが想う「素直」とはどんな状態かと言うと、「自分の心、感情、意識の動きを妨げない状態」である。言い換えると、自分が何を感じ、何を想い、それを受けてどうしたいかを100%受け止められる状態だ。


ある師匠筋が話したのだけれど、「素直」とは、漢字を分解すると「主」と自分が「糸」で「直」接つながっている、と書く。ここで言う「主」とは全知全能の神さまのことではなく、心の底にいる自分自身のこと。つまり、自分自身の主(マスター)と真っすぐつながっている状態こそ「素直」なんだよと教えてくれた。なるほど。


でも、常に自分自身に対して100%素直であり続けられる人ばかりじゃないと思うし、そういうときばかりでもないと思う。それが普通だと思っている。自分の氣持ちがわからなくなったり、人から言われたことでブレたりする。


そりゃそうさ。大いに結構じゃないか。


○影響を受けて良い。問題はその後

ぼくらの心や感情、意識の動きは、絶えず何らかの影響を受けている。


「こうするのが常識的」、「こういうときは、こうするのが当たり前」、「こんなことをしたら、親(家族、パートナー、友人)からどう思われるだろう」などなど、ぼくらはつい考える。意識的にしろ、無意識的にしろ。


こういう世の中の常識、人からの意見や視線、他者評価、蓄積してきた過去データ・・・。こういうものの影響を、ぼくらはどうしたって受けざるを得ない。


そのとき、ぼくらは(自分の感情に対して)素直でなくなっている可能性がある。


とするならば、影響を受けたら、受けたことを認識した上で自分の心、感情、意識の動きに再度フォーカスし直す必要がある。そういった諸々の影響を受けつつも、自分はどう思い、どう感じるのかをていねいに見ていく。そういう鍛錬が必要だと思っている。


自分の本当の理想はどこにあるのか。そして、いま、自分がどういう状態なのかを見定めた上で、目の前の出来事に対する選択をする。それができたら、それはかなり「素直」な状態にあると思う。

 

○素直じゃないという選択もあり

もちろん、素直でなければいけないということもない。常識的に、人からどう見られるかを意識して、他人から評価される人生を生きるのだって、悪くない。

 

むしろ、「あの人はホントに良い人だった」と、死んだときにみんなから残念がってもらえるかもしれない。


そんな人生を送るのも、もちろんありだ。


ただ。残念ながら、自分の人生は自分しか生きられない。だとしたら、自分の声に素直になって生きるのか、それとも、他人や固定観念、過去データに従って生きるのか、どっちが良いだろう。


素直な状態をキープするのに、終わりはないと思う。人からの影響は必ず受けるし、常識や固定観念は、ぼくらの深いところに入り込んでいる。

 

だから、常に「自分の心、感情、意識の動きにフォーカスする」ことに意識する必要がある。繰り返しやっていけば、それだけ上手になる。


一人で黙々とやるのも良い。ただ、同じ意志を持っている人と、楽しくやる方法もある。いろいろな方法がある。トライしたいと思ったら、いろいろ試してみたら良いと思う。よければぜひ。

 

 

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「言いたがり」卒業宣言


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良いとか悪いとか、そういう評価は一旦置いておくとして、ぼくの特徴として「人になんやかんやと言いたがる」クセがあるんだなー、と最近氣付いた。それは相手の言動に対する感想やフィードバックのこともあれば、アドバイスという形を取ることもある。


様々な形を取りつつ、ぼくは人に何かを言いたがる人なんだなー、と改めて思った。


最初にも書いたけれど、このこと自体は決して良いことでも悪いことでもない、とぼくは思っている。なるほど、ぼくはそういう人なんだなと捉えている。ただ、「この先どうしたいか?」で言うと「出来るだけ、自分からなんやかんや言うことを減らしていきたい」と思っている。


○何を言うかより、誰が言うか

師匠筋のK氏と話していて「何を言うかより、誰が言うかの方が重要だったりするから」という言葉が出てきた。おっしゃる通り。アタマでは知っているし、わかってるつもりなんだけど。


何も言わないことが美徳だとは思わない。自分が想ったこと、感じたことを相手に伝えることが悪いことだとも思わない。ただ、ぼくはそのアウトプット量が多過ぎるなと自分では感じる。特に関係が近い人や、ぼくが氣にかけている人に対しては特に、だ。


これはもちろん、愛が故にだとは思う。相手のことを想って発する言葉であることは間違いない。ぼくが想ったこと、感じたことを相手に伝えるのは、相手にとって決してマイナスにはならないと信じている。


でも、それこそ「誰が言うか」、見方を変えれば、相手が「誰からその言葉を聞くか」で、相手の受け取り方、受け取れる量は大きく変わる。


○自分自身を生きた、その先にあるもの

いままでのぼくはきっと(いまから書くことを自分で認めるのは人間的にとても辛いし、しんどいのだけれど)、人に影響を与えたいと思っていたのかもしれないな、と思う。


書いてみて、改めて感じるのは「それって我欲だよなあ」ということだ。結局、自己満足の世界でしかない。

 

相手のためを想っているように見えて、潜在意識的には自分の虚栄心や自己顕示欲を満たしていたのかもしれない。そういうことを、やっちゃってたかもしれないなあ、そういう側面はあったかもなあ。

 

ま、過去のことは仕方がない。それすらも全て完璧な流れだと思ってはいるけれど。


ともかく。でも、いまのぼくは、何かを発言することで周りの人に影響や氣付きを提供することよりも、自分自身が自分自身を精一杯生きることが役割なんだな、と思い始めている。これも、さっき出た師匠筋のK氏と話していて改めて氣付かせてもらったことだ。


ぼくはいままさに、人体実験の真っ最中だ。「こうしたら、こうなる」、「こう動くと、こう返ってくる」、そんなことに日々取り組んでいる。

 

そういう中で氣付いたこと、感じたことは、こうして皆さんに(勝手に)ブログを通じてシェアさせていただいている。


実はこのシェアは、一番ぼくのためになっている。考えたことや感じたことを一度文章にすることで整理できる。そして、再度自分の中に落とし込める。


それは良いとして。こういう人体実験を通じて得た経験や学びは、極端な話、口に出さなくても会った人には伝わると思う。そのあたりの自信、あるいは確信が、今までのぼくにはなかったんだろう。


だから、ぼくは「言いたがり」から卒業する。もちろん、発言を求められればするし、何か言わなきゃいけないときには言うけれど。


ぼくは、言葉の力を(相変わらず)信じている。だからこそ、その力を100%発揮出来る自分になるためにも、「敢えて言葉にしない」ことを学ぶ必要があると感じている。


自分の在り方だけで、人に想いを伝える。そんな修行を始めたいと思う。

 

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「正しい」ことについて


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みんな薄々氣付き始めてる(というか、実は知ってる)から、ぼくが今さらブログでわざわざ言うまでもないことなんだけど、ひょっとしたら、何かのお役に立つかもしれないから、念のため書いておく。


この世の中に「正しい」なんてことはない。


今日のブログはここで終わっても良いくらいだ。お疲れさまでした。


・・・ってわけにも(自分的に)いかないので、もう少し書き進めていく。


○絶対に正しいなんてことは、この世にはない

「この世の中に正しいなんてことはない」というフレーズをもう少し、ぼくが言いたいことに近付けて表現してみると、「この世の中に、普遍的に正しいなんてことはない」ということになると思う。


ぼくがこの考え方を採用するきっかけになったのは、実はガンダム(アニメ『機動戦士ガンダム』)だった。主人公のアムロ・レイは、物語の当初はただの民間人なのだけれど、ひょんなことから(物語ってのはだいたい「ひょんなこと」から始まる)、地球連邦軍の新型モビルスーツガンダム」のパイロットになる。


うん。通常のアニメだと、主人公が属する側が「正義の味方」になるんだけれども、『ガンダム』では、そうとは限らない。


細かいことを書き出すと長くなるんで止めるけれども、地球連邦軍が敵対するジオン軍は決して「世界征服」をもくろむ悪の集団ではない。彼らには彼らの言い分、論理があって、それが連邦軍とは相容れないがために、独立戦争を仕掛けるというストーリーになっている(なお、TV版の終わりには休戦協定がなされる)。


つまり、連邦軍側から見ればジオン軍の言ってることは間違っているし、ジオン軍側から見れば、連邦軍こそ自分勝手に見えるわけだ。


こういうことは、リアルな世の中にだってゴロゴロある。だから、普遍的、絶対的に正しいなんてことはこの世には存在しないと思っている。


法律だって実はそうで。例えば、車道を挟んで向こう側で、自分の大切な人が危害を加えられようとしているのに、「車道を渡るのはダメだから」って、横断歩道を探すことほどバカバカしいことはないとぼくは思う。横断歩道があろうがなかろうが、赤信号だろうがなんだろうが、ぼくは万難を排して、大切な人を守りに行くだろう。


もちろん、これすら正しいも間違っているもない。あくまでも、ぼくの想いだ。


○コミュニケーションにおける「正しさ」

もう少し、話を身近なところに置く。


ぼくは長い間、コミュニケーションあるいは人間関係において「正しいこと」、「正解」を追い求め続けてきた。でも(もう、多くの方が氣付いている通り)、コミュニケーションにおいて普遍的な正解なんてものはない。


正解/不正解というのは、どこかに回答があって、それに合致しているかどうかで判断する。国語の問題で、例えば「アムロがブライトさんにぶん殴られた時の感情を、50文字以内で答えなさい」という問いがあったとき、出題者側はある一定の「正答」を持っている。で、回答者が出した答えがその「正答」とどれだけ近いかで採点するわけだ。


でも、実際のコミュニケーションや人間関係はそうではない。いくら「社会的に正しい」、「一般的に正しい」回答を口にしたとしても、相手の受け取り方によっては0点になり得る。


あるいは、同じことをAさんが言ったら100点だけれど、Bさんが言うと0点とか、そういう残酷なシチュエーションだってある。この場合、BさんはAさんの真似をするのではなく、Bさんなりの回答を見つけるしかない。


こういうときは、こう言えばオッケー、みたいな問答集をぼくは(実は)長いこと追い求めてきたのだけれど、実はそんなもんは存在しない、ということがわかってきた(遅いよ)。特に、相手とより深いところでコミュニケーションを図ろうとするときには。


○いま・ここを感じて話すこと

ここでヒントになるのは、「いま・ここを感じる」ということなんだろうと思っている。


誰かと相対するとき、ぼくらのアタマは過去や未来に行ったり来たりで忙しい。


この人は昔こんなことを言ってたな、とか、こういう風に物事を考える人だよな、とか、こんなこと言ったら、この人との関係はこの先どうなっちゃうんだろう、とか、そんなことをぐるぐる考えて、そこから何とか答えを導き出そうとする。


うん。ぼくだって同じことを(いまだって多少は)している。


でも、実はそれよりも、いま、目の前の相手が何を想い、何を感じているのかに集中する。同時に、自分が何を想い、何を感じるかに集中する方が、コミュニケーションとしては質が高いかもしれないとぼくは思っている。特に、お互いに本音でコミュニケーションをしよう、という共通認識があるときには。


そこに「正しい」も「間違い」もない。ぼくが相手のことを100%想って発した言葉は、おそらく相手に届くはずだ。極端なことを言えば、いまの相手のことを100%想って発した言葉ならば、いま、相手に届かなくても、ぼくはそれで良いと思っている。


いまの相手がそれを受け取る準備が出来ていなくても、いつかその言葉は相手の深いところに届く。そう信じているからだ。


もちろん、それが原因で、ぼくと相手との関係がギクシャクしてしまったり、断たれてしまう可能性だって秘めている。でも、それを恐れて、いま・ここで感じたことをぼくが飲み込んでしまうのも、ちょっと違うよなあと思っている。


逆もまた真なりで、相手の想いや感じたことを出してもらえる自分でありたいなとも思っている。「これは正しいか、間違っているか」なんてことを相手に考えさせることなく、「この人になら、いま感じたことを伝えて大丈夫」と思ってもらえる自分でありたいと思っている。


そういうやり取りができる相手が増えたなら、この世の中はいまよりも、意思の疎通が円滑になるかもしれない。そうしたら、世の中はもっとハッピーになるかもしれないね、といまふと思った。

 

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「なんで」禁止令

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一休さん』をご存じだろうか。室町時代臨済宗大徳寺派の僧で、後小松天皇落胤(隠し子)と言われており、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」といった言葉を残したことで知られる一休宗純のこと、なんだけどちょっと違う。


彼の幼少期をモデルにしたアニメ『一休さん』の方の話だ。一休さんはとんちボーイで、意地悪な商人の桔梗屋さんや、当時の将軍・足利義満らの無茶ぶりをとんちで切り返すというストーリーだった。

 

と、いま書いてみて思うけど、将軍相手にとんち勝負ってスゴイな。


その『一休さん』に「どちて坊や」というのがいた。何事も「どちて(どうして)」と質問するのがクセで、周りが大いに困惑する、というストーリーだった。


前置きが長いな。まあいい。現実世界にも、これに似た「なんで坊や」、「なんでお嬢」というのがいる。「なんで○○は××なんだろう?」、「どうして○○は△△なのかな?」と考え込んでしまう人。わかる。めっちゃわかる。なぜならば、ぼくもそういう傾向があるから。


でも、ぼくは敢えて「『なんで』禁止令」を提唱したい。


○世の中には「なんで」がないこともある

人々が「なんで?どうして?」と聞いたり、考えたくなるのは、一つには「理解したいから」だ。その欲求はわかるし、相手や自分を理解しよう、という姿勢は大変尊いし、優しいと思う。ただ、この世には「理解を超えた何か」があるということも覚えておいた方が良いと、ぼくは最近感じている。


例えば、自分の本当の望みや希望、理想を見るとき、「なんで」を考えても仕方がない、とぼくは思っている。だって、「今日のお昼はカレーだな」と思うとき、「なんでぼくはカレーが食べたいんだろう?」と考えたところで、あまり意味はない、とぼくは思う。


確かに、しばらく食べてないから、とか、何となく二日酔いで、スパイシーなものを食べて目を覚ましたいから、とか、それっぽい理由は挙げられる。でも、昨日もカレーを食べたのに今日もカレーを食べたい!というときには、もはや理屈や理由なんて意味はない。いま、カレーが食べたい。以上終了なのだ。そこに理由も理屈もへちまもない。


自分の本当の希望や理想なんて、そんなもんだ。恋愛だってそうだろう。「この人が好き!」と思うとき、たぶん理由はない。いや、あるかもしれないけれど、実際には後付けだったりする。もし、あなたが理由を積み重ねないと人を好きになれないとしたら、一度それを止めてみたらどう?と思う。


○「なんで」は直感を邪魔する

「なんで」、「どうして」は直感を邪魔する。「あの人に会いたい!」と思った。そのとき、「どうして、ぼくはあの人に会いたいんだろう?」と考え始めると、歩みが止まる。そこでもし答えが出たとしても、物事は先に進んでいない。


ならば、「あの人に会いたい!」と思った次の瞬間に、会える努力をすれば良いのである。会うためにできることを、真剣に考えれば良いのである。


ぼくの友人は、テレビで「この人に会いたい!」と思った人を見つけた。で、彼は何をしたかというと、Facebookで会いたい人を探し出し、(面識がないのに)直接メッセージを送ったという。

 

結果、彼はその会いたい人に会えたんだそうだ。ここで彼が立てた問いは「なんで?」」ではなくて「どうしたら?」だったということだ。


もう一度言おう。「なんで」は、あなたの直感を邪魔する。確かに「ああ、だからぼくはこう考えたのか」と理解できると、安心するし、落ち着きはする。ただ、物事は1ミリたりとも前に進んでいない。


ぼくが、生きとし生ける全ての人が調和しあって生きる世界を見たいのも、いつもごきげんでさわやかに、真剣に生きていきたいと思うのも、もっと地球や宇宙と調和して生きたいと思うのも、師匠筋から学びたいと思うのも、あの人に会いたいなと思うことも、あの人が好きだなあと思うことも、美味しいラーメンを食べたいと思うことも、はじまりは全てぼくの直観でしかない。


もちろん、理由を積み重ねて取り組むことだってある。「これがこうだから、こうしないと」ということも、あるだろう。ただ、それだけやっていて、本当にあなたの理想に近付けるだろうか。あなたの理想は、その延長線上に本当にあるだろうか。


だからこそ、「なんで」、「どうして」を一旦捨ててみよう。直感で降ってきた自分の希望や理想に従って生きてみよう。

 

その結果、うまく行けばいいし、うまく行かなければ、そこで初めて「どうして?」とひも解いてみるのも良いかもしれない。


もちろん、自分で「なんで」、「どうして」のブレーキを外せれば良いけれど、それが自分ではできないよー、という人もいると思う。

 

そんなとき、『楽読』がお手伝いできるかもしれない。『楽読』とは、速読を通じて左脳(理屈、常識)の過度のブレーキを外して、右脳(希望、理想)のアクセルを踏める脳の使い方に変えていくメソッド。ご興味あれば体験もやってるので、ぜひ。

 

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常に自分の理想を超え続ける(ぼくが出会った名言集)

 

「常に自分の理想を超え続ける」(師匠筋のN氏)

 

ぼくらが見ている世界は、ぼくらの意識が創りだしている、という話を以前書いた。このことについては、ぼくの認識は1ミリたりとも変わることはない。ただ、「じゃあ、何でも自分が思った通りになるってことだね!?」と言われると、うーん、という反応になってしまう。

 

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