愛を知るために「個」を生きること(富士宣言シンポジウム その5)

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セッション5は「現在と未来の調和」。未来世代にどんなメッセージを送りたいか?というテーマが話し合われました。

 

最初にお話ししてくれた、ナイジェリアの民主化運動家で政治家のハフサット・アビオラコステロさんのお話が、僕的には結構インパクトがあった。

 

ハフサットさんはまず、我々は「何々国民」である前に「地球市民」であり、地球の子どもであることを認識しよう、という。うん。100%同感。国境なんてもんは、勝手に人が作り上げたもので、それがどうしたこうしたと言い合うこと自体がちゃんちゃらおかしい、と思っている。ま、現時点では仕方ないねとは思うけど。

 

そして彼女曰く、ここ50年以上、世界的な人口バランスで見ると男性の方が6600万人ほど女性よりも多いのだそうだ。これは彼女の見方によれば「女性が大切にされていないから」なのだという。なるほど。そして、女性の数が少ない地域とはどんなエリアかと言うと、紛争が続いている地域なのだそうだ。要するに、紛争状態という女性が大切にされにくい状態が続いている地域では、女性がそもそも生まれにくくなる、と。これは、決して調和のとれた状態とは言えないよね、とは感じる。

 

次世代の子どもたちと、どう付き合っていくべきか

心理学者で慶応義塾大学名誉教授の岩男氏は「あなたは、その子をあなたのようにしようとしてはならない」という。つまり、子どもを自分のコピーのようにしてはならないと。

 

次世代は、我々の想像を超えた世界で生きることになる。その次世代に対して、旧世代の知識や知恵、常識や感性を押し付けようとしても、意味がないどころか逆効果だ。それならば、次世代には次世代に必要な知識や教養を身に着けられるような環境を提供する必要がある(という意味だと思う)。その文脈で「身に着けた教育は、誰にも奪うことができない」ともいう。名言だと思う。ただ、親が押し付けた教育(のようなもの)は、たぶん無意味だろう。子どもたちは自らの力で自ら学ぶものを取捨選択し、自ら進んで学ぶ(はずだ)。それを、「いい高校に入って、いい大学に行って、一流企業に勤めて」なんて、オールドスクールな価値観を未だに押し付け続けていては、おそらく逆効果になる、と僕は読んでいる。

 

子どもたちは天才だ。その天才性に氣付いて、それを伸ばすサポートをするのが、旧世代の役割なんじゃないかなと思っている。

 

岩男さんが言おうとしたことと、ひょっとすると真意はずれているかもしれないけれど。

 

最後の最後に、スピリチュアルなお言葉を。

最後に、ものすごくスピリチュアルというか、いつもの僕らしくないことを書いて、この5回シリーズを締めくくろうと思う。

 

このシンポジウムを通じて、「Oneness」あるいは「Wholeness」というワードが何度も出てきた。我々は1つであり、全体であると。普通に考えれば、我々は1人の人間で、あなたはあなただし、私は私だし、別の人間である。「私」と外の世界とは、繋がっていないし、分離していると見える。確かに、そう見える。

 

一方で、あの世(いよいよ怪しくなってきた)は、自他の差がなく、すべて1つの大きな「何か」の状態にあるといわれることがある。このあたりは、非常に難しい表現になってくるのだけれど、分離していない、統合した世界があると言われている。

 

いったん、ここで区切る。この世とかあの世とか、統合した世界が広がっているとか、信じても信じなくても、僕はどちらでも構わない。本当にどっちでもいい。ただ、一応ここまで読んだのならば、最後まで読み切ってほしいなとも思う。

 

すべて読んでみた結果、「コイツは頭がおかしい」と思っても、「アブナイ世界に足を突っ込んでしまった」と思われても、それもまた構わない。この原稿を読んで、友だちと連絡が取れなくなったとしても、僕は恨まないので安心してほしい。

 

さて。では、なぜ僕たちは「この世」でわざわざ分離した「個」として生まれ、ある意味苦しんでいるのだろうか。「個」ではなくて「全体」、「分離」ではなくて「統合」した世界に生きていれば、争いや諍い、行き違いや誤解や不要のストレス、紛争や戦争を経験しなくて良いはずじゃないかと。

 

僕らがなぜ、この世で「個」として生きなくてはならないのか。それは、「違い」を知った上で相手を許容する力を身に着けることと、もっと大きく言えば「愛」を知るためだろうと思っている。

 

もし、僕らが全体であり、統合した存在であり続けたならば、「愛」は当たり前に存在するものである。繋がりあっている状態が「当たり前」であれば、それがいかに尊いものかを知ることは難しい。だけれど、僕らは「個」を生きていて、繋がりあうことが決して容易なことではないと知る。男女の間で言えば、こちらが恋愛感情を持っても、相手と必ず繋がりあえるわけではない。だからこそ、繋がりあえた、分かり合えた時に大きな喜びが生まれるわけだ。

 

それは、親子関係でも同じだし、友人関係でも同じこと。「愛」がどれほど貴重で、大切なものかを知るために、僕らはこの世で「個」として生きる必要があるんだろう。そんなことを考えている。

 

そして、ホントに最後に、5回にわたって、ありがとうございました。

 

このシンポジウムを企画してくださった皆さま、誘ってくれたひろしくん、そして、このブログを読んでくださった全てのみなさま、ありがとうございます。

 

あ、ブログはまだ続きます(笑)

自分の内面を見つめ直すこと(富士宣言シンポジウム その4)

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さて。だいぶ間があいてしまって、私の記憶も定かではなくなってきたところもあるんですけれども(笑)、その分自分の深いところを経由して出てくるもの(なはず)なので、それはそれで面白いかなと思って書いております。

 

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人間と自然と、人間が自然に生きること(富士宣言シンポジウム その3)


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やめてません(笑)。

 

ということで、昼食をはさんで(というのは、この原稿においてはほぼ関係がない)、セッション3。テーマは「人間と自然の調和について」。

 

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目に見えるもので、見えないものを整える(富士宣言シンポジウム その2)


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さて、セッション2。セッション2はパネラーが多くて、その分面白い話もたくさんあったんだけど、敢えていくつかはカットする(実は漫画『ガラスの仮面』でおなじみの美内すずえさんも来られて、スゲー興味深い話をしてくれたんだけど、泣く泣く割愛)。

 

セッション2のテーマは「肉体と精神の調和――神聖なる精神を顕現するには」。うむ。見るからに何というか、スピリチュアルというかね(笑)。以前の僕なら、完全に疑いの目を向けていたはずだ。

 

いやはや。人間変わるもんである。これほんとに。人間、いくつになっても変わる。それをあなたが望むなら、だとは思うけれど。

 

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男性性、女性性、そして全体性

僕がこのセッションで面白いなと思ったのは、「大切なのは『ホールネス(Wholeness)』、全体性である」という表現。

 

これを述べてたのは、シート・オブ・ザ・ソウル研究所の共同創立者(余談だけど、「シート・オブ・ザ・ソウル」って日本語で検索すると、エヴァンゲリオンが出てくるんだよね。確かに、シート・オブ・ザ・ソウルだわな、エヴァって)、ゲイリー・ズーカフさん。

 

ズーカフさん曰く、「男性が男性性を、女性が女性性を発揮する、あるいはすべきというものではない」と。僕は以前から、「男性性」という言葉が発するマッチョ感がどうにも苦手だったんだけれど、そうではなくて、調和を取ることが大切だよ、というところにとてもしっくり来た。

 

あと、「コントロールするところに愛は存在しない」というフレーズがあって、僕はこれがとても心に沁みた。どうしても、人は愛ゆえにコントロールしたくなる衝動に駆られる。子どもに危険なことをさせないように、恋人と離れたくないから、自分の目の届く範囲でコントロールする、とかとか。

 

それも愛ゆえなのは分かるけれど、コントロールしようという意思が働いているとき、それはもはや愛ではなくて執着だよね、とも思う。うん。何かこう、グッと来たんだよね。勝手にね。

 

僕は、愛に基づく行動をとりたいと思っているけれど、それが「執着」に変わってしまわないように注意している。それは、愛のようでもはや愛ではないと思うから。

 

「頭・心・体」のバランスを取ることで、クリエイティビティは生まれる

起業家であり瞑想家、そしてカルマキッチンの運営などにも携わっているホセラ・ゴンザレスさんが言うには、体は物質世界に属していて、精神世界・意識世界は物質には囚われない。この間、つまり物質世界と精神世界の間にいる人というのが、いわゆる臨死体験者や、クリエイターなんだと彼は言う。

 

確かに、クリエイター(特に、天才肌の人になればなるほど)は、「創っている」というよりは「創らされてる」または「降ろされている」感覚が強いんだろうなー、と感じることがある。

 

また、彼は2年間のインド生活の中でガンジーの思想について学び、肉体と意識の関係について学んだらしい。その時言ってたのは「外で行う行動が、精神性にも影響を与える」ということ。だから、教育においては「頭・心・手」を使うことが大切だと説く。

 

今までの教育(特に日本の学校教育)は、頭偏重の教育だった。でもそれを「手」を使ってクリエイティビティを発揮したり、心についてもっと学ぶ機会を通じて、よりバランスのとれた人になるんじゃないか、という指摘。

 

これはハコネエコビレッジにいると、本当に痛感する。普段(要するに都会にいるとき)、いかにアタマしか使っていないか、手や心がおろそかになっているかを感じる。

 

都会にいると、お腹が空いたなと思ったらコンビニやファストフードでインスタントに食欲を満たせるし、風呂に入ろうと思ったらボタン一つでいい湯加減、いい湯量の風呂が用意できちゃう。

 

でも、ハコネではそうはいかない。そもそも母屋に到着するまでに15分ほど山道を登って、お腹が空いたら自分で火を焚いて米を炊くか何かしなくてはいけない。風呂を沸かすのだって、当然水をためて火を熾すところから始まる。すべからく、手を使って生きることになる。そうすると、自然と心や感情も動く。そのバランスが取れていることが大切だよ、と。なるほど。

 

目に見えるもので、目に見えないものを整える

また、「肉体と精神の調和」というテーマに合わせて言うと、「外で行う行動が、精神性に影響を与える」という。確かに、禅の世界でも、座禅を組むことや「作務」と呼ばれる日常のお仕事(掃除をしたり、食事を作ったり)をすることで、精神を整えるという考え方がある。武道もそれに近いかもしれない。型があって、それを守ることで、自分の精神を整える。

 

人間、精神やココロのように「見えないもの」を整えるのはとても難しい。「平静でいろ」と言われても、ココロが乱れることはある。でも、身の回りを整理したり、きれいにしておくことで、ココロも整うことはあると思う。履き物を揃えるとココロも整う、みたいなね。

 

そういう意味では、制御しやすい目に見える「肉体」から精神の安静や整頓をするという考え方は、すごく実地的だなと思った。もちろん、瞑想だったり、座禅みたいなものを生活に取り入れるのも良いと思う。

 

いやはや。本当はもっとたくさん面白い話もあったんだけど(オキシトシンの話とかも面白かったんだけどね)、割愛させていただく。ほんとに皆様、ありがとうございます!!

男性性と女性性との調和と、恐れについて(富士宣言シンポジウム その1)

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先日函館で見つけた、かなりハルク・ホーガン感の強い坂本龍馬像 

 

 

5月12日、ご縁をいただきまして、富士宣言シンポジウム「調和とバランスのとれた世界を共創する」というイベント(?)に行ってまいりました。

 

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お金の使い方こそ、大切にしたい


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一時期、むちゃんこお金が欲しい、と思ったことがある。欲しいものがたくさんあって、お金があれば、それが手に入ると思っていた。

 

その時期を過ぎて、今はお金が欲しいという感覚はあまりない。あればあった方が良いけれど、無いなら無いなりにどうにでもなる、と思っている。

 

僕はありがたいことに定職に就いていて、毎月お給料を会社からいただいている。いただいている額が、自分の仕事量より少ないとも思わないし、多いとも思わない。割と適正だなぁと思う。なので、とても氣持ち良く仕事が出来ている。

 

ただ、これがほんとうに僕が僕自身の才能を社会に役立てる上でベストな仕事かどうか、については良く分からない。その辺は、一人でじっくり考える。

 

さて、本題に入ろう

というわけで、僕はそんなにたくさんお金を持っているワケではないけれど、お金に困ってもいない。

 

最近は「心地良くお金を使うこと」を意識している。どうせお金を使うなら、自分が心から良いなあと思うもの、こと、人に使いたい、と思っている。

 

この「心地良くお金を使う」というのは、案外カンタンなことではない。散々吟味して、色々見比べて、コレは良いけど手が出ないとか、コレは安いけど氣に食わないとか、そんなアレコレを経て使うことになる。

 

「とりあえず安いから、良いっか~」てな感じでお金を使っていた時は考えなかったことまで、考える。

 

例えば、それが「どこで」、「どのように」作られたものなのか?とか、コレを買うと誰にお金が入るのか?とか。

 

別に高いものを買うわけではない

最近買ったもので言えば、無印良品のスニーカーを買った。これは、オーガニックコットンで作ったらしいのだけれど、ノーブランド(ま、無印良品がブランド化してるけど)だから、アディダスとかより安い。

 

僕はリンゴマークの製品に興味がないから、スマホは格安のもの、ノートパソコンも2万円台の安いヤツを使っている。何の不自由もない。

 

映画を見る時もそうで、最近は割引が利く日を狙って見に行っている。映画の日、TOH○シネマズの日、メンズデー、会員割引デーなどなど、探すと結構ある。こうなると、正規料金を払うのがアホくさくなる。

 

一方で、友だちとメシを食うなら、どうせならおいしいものを食べたい、とかはある。ご飯を作るときも、せっかくなら無農薬だったり、生産者さんの顔が見えるような野菜を買いたいなと思う。

 

お金との付き合い方

「数千円はコミュニケーションツールだ」(ニュアンス)と言った人がいる(まあ、最近僕が敬愛しているヒロノブさんなんだけど)。

 

 

カッコいいなあと思う。裏を返すと、数千円を「コミュニケーションツールだ」と思って使えるくらいの余裕(金銭的にも、精神的にも)を持ちたいなとも思う。

 

そして、お金の使い方はその人の「生き方」を表すような氣もしている。ハデにつかえば良いってもんじゃないけど、ケチケチしすぎるのも面白くない(と、僕は思う)。

 

インスタントなものばかり買い続ければ、インスタントなものが手に入る。それはそれで、良いも悪いもない。僕もインスタントなもの好きだしね。便利だし。ただ、それだけだとつまらないな、とも思う。

 

この辺は、また改めて。アディオス。