お金の使い方こそ、大切にしたい
一時期、むちゃんこお金が欲しい、と思ったことがある。欲しいものがたくさんあって、お金があれば、それが手に入ると思っていた。
その時期を過ぎて、今はお金が欲しいという感覚はあまりない。あればあった方が良いけれど、無いなら無いなりにどうにでもなる、と思っている。
僕はありがたいことに定職に就いていて、毎月お給料を会社からいただいている。いただいている額が、自分の仕事量より少ないとも思わないし、多いとも思わない。割と適正だなぁと思う。なので、とても氣持ち良く仕事が出来ている。
ただ、これがほんとうに僕が僕自身の才能を社会に役立てる上でベストな仕事かどうか、については良く分からない。その辺は、一人でじっくり考える。
さて、本題に入ろう
というわけで、僕はそんなにたくさんお金を持っているワケではないけれど、お金に困ってもいない。
最近は「心地良くお金を使うこと」を意識している。どうせお金を使うなら、自分が心から良いなあと思うもの、こと、人に使いたい、と思っている。
この「心地良くお金を使う」というのは、案外カンタンなことではない。散々吟味して、色々見比べて、コレは良いけど手が出ないとか、コレは安いけど氣に食わないとか、そんなアレコレを経て使うことになる。
「とりあえず安いから、良いっか~」てな感じでお金を使っていた時は考えなかったことまで、考える。
例えば、それが「どこで」、「どのように」作られたものなのか?とか、コレを買うと誰にお金が入るのか?とか。
別に高いものを買うわけではない
最近買ったもので言えば、無印良品のスニーカーを買った。これは、オーガニックコットンで作ったらしいのだけれど、ノーブランド(ま、無印良品がブランド化してるけど)だから、アディダスとかより安い。
僕はリンゴマークの製品に興味がないから、スマホは格安のもの、ノートパソコンも2万円台の安いヤツを使っている。何の不自由もない。
映画を見る時もそうで、最近は割引が利く日を狙って見に行っている。映画の日、TOH○シネマズの日、メンズデー、会員割引デーなどなど、探すと結構ある。こうなると、正規料金を払うのがアホくさくなる。
一方で、友だちとメシを食うなら、どうせならおいしいものを食べたい、とかはある。ご飯を作るときも、せっかくなら無農薬だったり、生産者さんの顔が見えるような野菜を買いたいなと思う。
お金との付き合い方
「数千円はコミュニケーションツールだ」(ニュアンス)と言った人がいる(まあ、最近僕が敬愛しているヒロノブさんなんだけど)。
数千円、ていくらなんでも誰でも使うし、使える額だと思うんです。じゃあどう使うか?
— 田中泰延 (@hironobutnk) 2017年3月29日
これ、言葉と同じなんですね。言葉と数千円は同じものなんですよ。コミュニケーションの道具なんです。
万の単位になると今度は口だけじゃない行動、生き方の問題、とパラレルになってくるんです。 https://t.co/tvoq5iJpbL
カッコいいなあと思う。裏を返すと、数千円を「コミュニケーションツールだ」と思って使えるくらいの余裕(金銭的にも、精神的にも)を持ちたいなとも思う。
そして、お金の使い方はその人の「生き方」を表すような氣もしている。ハデにつかえば良いってもんじゃないけど、ケチケチしすぎるのも面白くない(と、僕は思う)。
インスタントなものばかり買い続ければ、インスタントなものが手に入る。それはそれで、良いも悪いもない。僕もインスタントなもの好きだしね。便利だし。ただ、それだけだとつまらないな、とも思う。
この辺は、また改めて。アディオス。
僕らもいつかは「巡礼」に出るんだろう
小説の書評、しかも数年前に出たベストセラーの書評にいかほどの意味があるかと言えば、まあ、ほぼないかもしれない。でも書く。構わず書く。
正直言って、書評というよりは「書評の形を借りた別の何か」なんだけれども。
僕は最初にこのタイトルを見たとき、「ずいぶん面倒くさいタイトルを付けたな」と思った。長ったらしいし、何というか、カッコつけてる感もある。
僕は村上春樹の作品は好きで、ほぼ(最近の作品は除いて)読んでいる。だから、彼の作品のタイトルの奇抜さには慣れてるつもりだけれども。
ちなみに、個人的に好きな作品は長編なら「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、短編集なら「パン屋再襲撃」。「1Q84」も良かったなー。ちなみに、今年「多崎つくる~」を読んでることからお察しの通り、最新作の「騎士団長殺し」はまだ読んでない。
で、読後感としては「このタイトルしかなかったな」という感じ(笑)。まさに「色彩を持たない多崎つくる氏」が「巡礼をする」お話だよね、簡単に言えば。まあ、加えて言えばリストの「巡礼の年」という楽曲が、主要なモチーフにはなってるんだけど。
失ったものと、どう折り合いをつけるか
村上春樹さんの作品は、たいてい「失ったものをどう取り戻すか、あるいは、どう折り合いをつけるか」がテーマになる(と、僕は読んでいる)。
この作品もご多分に漏れず、そういうテーマ。失ったものと折り合いをつけるための「巡礼」がクライマックスになる。
僕らは生まれたときから色々なものを得て、同じくらい失って生きている。生まれてこの方、何も得たことがない(あるいは、失ったことがない)人は、たぶんいないと思う。失うのが怖いからと言って、何かを得ることを拒絶することはできないし、たぶんそれはそれで、とても苦しい。
で、我々は失ったものを振り返ってみたり、忘れてみたり、思い出として大切に取っておいたり、敢えて捨ててみたりして、折り合いをつける。でないと、次に進めないから。
多崎つくる氏は、大学時代にとても大切なモノを失ってしまったが故に、その折り合いをうまくつけられずに大人になった。んで、新しいステージに進むことを目指したとき、その決着をつけることを余儀なくされ(あるいは自ら選び)、「巡礼」に出た。
我々も、いつかはどこかで巡礼に出るんだろう
この歳(今年で41歳)になると、僕も色々なものを得てきたし、色々なものを同じように失ってきた。その度に、上手に折り合いをつけてきたつもりではいるけれど、自分でも氣が付かないところで、折り合いをつけそこなって来てしまったことがあるかもしれない。
多崎つくる氏もまさにそうで、表面上はうまく過去と折り合いをつけて生きているように見えるけれど、実はそうではない。作品の中で、彼はまさに「そこ」と決着をつけない限り、次には進めない状態になる。そして、巡礼に出た彼は、新たな何かを手に入れることができたのか。そこは、作品を読んでいただきたい。
彼にとって、巡礼に出ることが本当に幸せだったかどうか、楽しいことだったかどうかはわからない。でも、彼はそうする必要があったのだと思う。
そして、その時は我々にも同じようにやってくるんだろう、と思う。僕もそろそろ、巡礼の年を迎えたようだ。さて。重い腰を上げて、出掛けるとしようかね。
全ては理想を描くところから始まる
photo by chisako
大切、というか、それだけだなと思うのが「理想の状態をイメージする」こと。今がどうかとか、前はこうだったとか、そんなもんはもはや関係ない。「どういう状態が理想か?」だけに集中すればよい、というお話。
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失敗しよう。~『英雄の書』を読んで~
以前、僕は「いじられる」のがとても嫌だった。今でも決して得意ではないけれど、多少は「おいしい」と思えるようになってきた。昔は「いじられるのはカッコ悪い」と思い込んでいたからだと思う。
で、今読んでる本。面白い。読み終わってないのに紹介したくなるほど面白い。
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