こんな本を読んだ:『仏教ではこう考えます』

 

 

仏教ブームが到来している。

と言っても、あくまでも僕の中でだけですけども。

 

もともと、僕はさほど宗教には興味を持たずに育ってきて、しかも関わりという意味では、幼稚園と大学がミッション系だったりして、キリスト教の方が強かったりするのですが。

 

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継続は力なり、は本当か


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「継続は力なり」と言う。確かに、そうでしょうね、とも思う。一方で、「続く(続いてしまう)仕組みを作ること」や「ハードルを下げること」、そして何より「続くことを見つけること」の方が大切だわよね、と思い始めた。

 

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夢や目標に近づくための第一歩


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例えば、あなたが何か成し遂げたいと思ったり、何かしたいと思った時、あなたならどーします?という話から入ってみたい。

 

今、僕がテーマにしたいと思っているのは「ちょっと大きめのこと」だ。

 

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こんな本を読んだ『GRIT 平凡でも一流になれる「やり抜く力」』

 

GRIT 平凡でも一流になれる「やり抜く力」

GRIT 平凡でも一流になれる「やり抜く力」

 

 

■そもそも「GRIT」とはなんぞや

「GRIT」とは、Guts(度胸)、Resilience(復元力)、Initiative(自発性)、Tenacity(執念)の頭文字をとったもの。まあ、副題にあるとおり、これがあれば「平凡な人でも、一流になれまっせ」というものだという。訳者もあとがきで書いていたけれど、まあ一言で言えば「努力と根性」みたいなもんだ。

 

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選択の時期

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フェイスブックを見ていたら、こんなのが流れてきたわけです。

 

 

ココに貼ったのはツイートですが、僕が最初に見たのはフェイスブックでした。まあ、中身は同じ。

 

そして僕は、こう思いました。「あーすじぷしーは、僕を監視しているに違いない」と。

 

はい。当然ながら、そんなわけはない。彼女らもそんなにヒマではない。しかし、そのくらいタイムリーかつピンポイントなメッセージが届いたわけです。

 

と、ここまで書いて「『あーすじぷしー』とは何者なのか」の説明を入れた方が良いような氣がしてきた。

 

というわけで、Amazonの著者紹介を抜粋。

 

1987年4月24日生まれ、双子の姉妹。“あーすじぷしー"という団体名で活動中。2012年から、自分たちのもつ共感覚(音や文字、人に色を感じる力)をいかし、その人の持つソウルカラーを描きながら、ココロの感じるままに目的を決めずに旅をするあーすじぷしーという生き方を実践している。

 

そのあーすじぷしーの一冊目の本がコレ。

 

EARTH GYPSY(あーす・じぷしー)

EARTH GYPSY(あーす・じぷしー)

 

 

■「今、もう一度選ぶときです」

むろん、自分がそういうモード、あるいはステージ、もしくは心持ちになっているから、そういうメッセージが目に付く、ということは多分にありうると思う。

 

が、それにしても。

 

「今、もう一度選ぶときです」


と、あーすじぷしー師匠はきっぱり言い切るわけです。ふむ。これは、僕が先日書いたブログの記事ともつながってくる話で、僕にとって今まさに「選択」が大きなテーマになっている。

 

「何を選択するか」もそうだし、「選択した後、どうするか」もそう。前出の記事の繰り返しになるけれど「自分の選択に自信を持つ」こともまさにそう。言い換えると「人に選択を任せないこと」とも言える。

 

どこに行って、何を食って(←重要)、誰と会って、誰と仕事をして、何を食って、どこに住んで、どう生きるのか。

 

大げさに言えば、そういうことが問われてるということなんでしょうね。

 

まさに「で、どうしたいの?」だ。

 

さて。どうしましょうかね(笑)。

謙遜という弾幕

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今回の記事は(というか、どの記事もそうなのだけれども)僕個人の実感やら直感やら、そう感じたことを元にして書く。だから、「ホントにそうなの?」とか「そうは見えないけどなー」というご意見も、ありがたく頂戴するけれど、実際に僕はそう思ったのだからしょうがない、という前提で話を進めたい。

 

何たるめんどくさい前置きか。でも、これは置いておきたい。

 

■今日、というかもう昨日になるのだけれど

氣が付いたことがある。と書くと、まるで自分で氣が付いたように見えるけれど、そうではなく、正確に言えば「氣付かせていただいた」のだけれど。

 

何に氣付いたかというと、「僕はずっと言い訳をしながら生きてきたのだな」ということだった。

 

今日(というか昨日、えーいめんどくさい)、ある場で食事を作らせてもらうことになった。僕は食べることが好きだし、美味しいものが好きだ(あまりマズいものが好き、という人には出くわしたことがないけれど)。料理も好きだし、結構人からはホメていただける。のだけれど、自分的にはそれを受け入れられていない部分もあったりする。

 

んで。自分のホームグラウンドではない場所で、しかも自分が意とした食材ではなく、その場にあるもので、しかも、調味料やら何やらもその場にあるもので作るという、僕としては非常に何というか、ハードというかハードルの高い状況での調理だった。

 

作ったのは鍋だった。味付けまでして提供しようと思ったのだけれど、どーにも味が決まらない。うーむ、と思いつつ、とりあえず逃げ道として後から味をつけられるタレと一緒に出すことにした。

 

んで、僕は(正確に何と言ったかは忘れたけれど)「いまいちなんだけど」と言ってその鍋を場に出した。その時、その場にいる一人がこう言った。

 

「美味しくないんなら、出すなよ。失礼だよ」

 

■この一言にハッとさせられたのである。

いや、これは全く正論である(ちなみに彼は、そう言いつつも私が作った鍋を食べ、美味しいじゃないかとも言ってくれた)。

 

この時、僕は、ああ、今まで僕はこうして人生に逃げ道を作りながら生きてきたのだなと思った。これはもう、良い悪いの話ではない。

 

確かに。美味しくない、と自分が思うものを人に提供するなんてのは失礼な話だし、そういった彼も「謙遜する必要なんてないんだよ」と後から僕に伝えてくれた。その言葉は、本当にありがたかったし、嬉しかった。食材に対しても失礼な話ではある。

 

僕は多分、無意識の中で「美味しくない」という弾幕を張った上で、「なんだ、美味しいじゃないか」という反応を欲しがっているのだな、ということに氣付いたのだ。それは、人生のほかのシーンにおいても、僕が長年使ってきた(姑息といえば姑息な)処世術だったとも言えるかもしれない。

 

■過去の自分と決別する

今すぐ、40年近く使い続けてきたその処世術をきれいさっぱり捨てる、というのは難しいかもしれない。でも、もういい加減、そういう「事前にハードルを下げる、謙遜という弾幕を張っておく」のは止めようと思った。

 

ともかく、止めることを意識しようと思ったのだ。

 

それは「自分に自信を持つこと」、「自分の判断を信じること」、「自分の人生のハンドルを自分で握ること」をやり直すことにもつながるのではないか、と考えた。

 

僕は今まで、自分の人生のハンドルを人に任せすぎてきたのかもしれない。自分の判断を信じられず、人の判断に頼って生きてきたのかもしれない。そういう感覚は多少ある。

 

今までの人生にはまったく後悔していないし、むしろ色々なことに感謝しているけれど、色々なことを考え直し、捉え直す時期に来ているのだなとも思う。実際、そういう状況にもなっているわけだし。

 

だからこそ、今後は自分で自分の判断を信じ、自分で選択する必要があると思う。人に相談することもあるだろうけれど、少なくとも、人に合わせて(自分の選択をせずに)行動することは止めようと思う。そのことで、人と衝突を引き起こしそうな場合には、話し合えばよい。話し合ってもダメそうな時は、自分の決断を信じるしかない。

 

そんなことを考えた夜であったとさ。

見えないところを上手く使う


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プロが家で打ってくれたうどん。うまし。

■見えないところをどう使うか。

舞台にしろ映画にしろ(特に舞台は、かなあ)、「見えてないところを上手く使うこと」というのがコツなんだな、と最近分かってきた。いや、カンの良い人や、勉強してる人なんかに言わせれば「何をいまさら」感満載なのかもしれないけど。

 

わかりやすいから、舞台を例に取る。舞台は(場面転換とかをしない限り)基本的には、観客は一つの場を見続ける。例えば、誰かの家の居間だったり、学校の教室だったり。

 

映画『笑の大学』(脚本:三谷幸喜)は、ほとんどのシーンが取調室になってる。これは、元々舞台を映画化したからだろうと思う。『12人の優しい日本人』もまあ、そうだよね。

 

我々(観客)は、そこで起きること、そこで交わされる会話しか(基本的には)情報が与えられない。この場以外で起きている出来事は、想像するしかない。逆に言うと、「想像の余地がある」。

 

■見せないで見せる

舞台上以外で起きていることを、観客は想像するしかない。つまり、想像に委ねることができる。

 

例えば、舞台を核シェルターの中に設定して、「外の世界は核戦争でエラいことになってる」とすると、観客はその世界を(それぞれに)想像する。これを実際の映像で見せようとすると、結構大変。CGとか駆使しないと。だけど、人々の想像に任せればタダだ(笑)。

 

また、舞台上を起点に、過去や未来を描くこともできる。ここに来るまでに、その人が何をしてきたのか。ここから、どこへ行くのか。会話の中でそれを表現できれば、ドラマは「舞台上で起きていること」の枠を越える。

 

さらに「そのことが信用できるかできないか」という技術も使える。舞台上の登場人物が必ず真実を語るとは限らない。

 

一人の女性を巡って男二人が争っている設定で、男Aが女に対して「男Bはこの間、ずいぶんきれいな女性を連れて歩いてましたよ」てなことを言ったとする。

 

男Aのこの発言は、信用に足るのか?女を疑心暗鬼にさせるための嘘じゃないか?みたいなこともできるわけだ。

 

てなことに最近氣がついた。でもまあコレって、日常生活も同じことなんだよね、とは思ったけれど。