珍しく、あり得たかもしれない可能性について
■long long time ago
そう言えば昔、パン屋になりたいなあと思っていたのを思い出した。昔も昔、遥か昔だ。簡単に言えば、子どもの頃。もう30年以上前のことだ。
よく、親に連れられてパン屋に買い物に行った。別に何てことはない、フツーのパン屋だ。有機栽培の小麦を使ってる訳でもないし、イースト菌を使ってないわけでもない、ホントにフツーの街のパン屋。
ドラえもんやアンパンマンの顔を模した「ドラえもんパン」とか「アンパンマンパン」とか売ってるような、オシャレでもなんでもない、よくあるパン屋。
しかし、今にして思えば「アンパンマンパン」てややこしいね。でも「アンパンマン」を作ってくれるわけではないし、ただの「アンパン」も違うしな。ひょっとすると、そのネーミングにはパン屋なりの葛藤があったのかもね。
「オレには、Jのオジキみたいに、アンパンに命を吹き込んでアンパンマンにしてやることはできねぇ・・・。でも、オレはオレなりにアンパンマンパンに命かけてるんだ・・・!」的な(妄想)。
話が盛大にそれた。というか、これが言いたかったという説もある。
■パン屋として働くこと
とにかく。パン屋に行くと、いつもとてもいい匂いがした。パンの焼ける匂い。
その匂いを嗅いでいると、あー、ここで仕事をするってのも悪くないなあ、と思ったのを覚えている。
小麦粉をこねて、伸ばして、寝かせて、ロールパンの形に丸めたり、フランスパンの形に成形したり、場合によってはパイのように折り畳んだり。そして、また寝かせて焼く。
パン屋の朝は早い。たぶん。朝早くからパンを仕込んで、焼けたパンを店先に並べる。んで、100円だの200円だのをもらってパンを渡す。
うん。悪くない、と思った。でも今、僕はパン屋はやってない。
■原田宗典の短編集に
『優しくって少しばか』という作品がある。この作品に、「優しくて少しばか」なパン屋が出てくる(正確に言うと、パン屋について言及される)。
この原稿を書いていて、急にこの作品と、このパン屋のことを思い出した。そして私自身が、優しくて少しばかなパン屋になる人生だって、あったかもしれないんだよなぁ、と改めて思った。
別に、今こうして優しくもなく、割とバカな会社員をやっていることに、何か不満があるわけではない。ただ、そういう可能性もあったよねぇ、と思っているだけだ。
もちろん、まだ「優しくてばかなパン屋」になる可能性が無くなった訳じゃないけれど。
人生、どこで何があってどうなるか、わからないよねってことだ。例えば3年後、僕がパン屋をやっていたとしても、さほど驚くべきことでもないのかもしれない。
とにかく。この短編集はとても良いので、みんな読むと良いと思う。作者の原田宗典は、作家の原田マハの実兄(豆知識)。
じゃまた。
日々どんな気持ちで生きていくか
■いつ死んでもいいなあと思いながら生きる
大げさでも何でもなく、いつ死んでも良いなあ、と思っております、また、そのような心持ちでいつも居たいなあと思っています。
ちょっと説明が足りないかもしれないのですが、別に「今すぐに死にたい」と思っているわけではありません。「いつ死んでも良いなあ」です。例えば、それが今であっても、全く構わない、ということでして。
例えて言うならば、アレです。「西の森の神様が大変お怒りで、生贄をよこせって言ってるんですけど、どうしましょ」的、RPGとか昔話とかに出てくる話って、あるじゃないですか。そんな時に「ハイっ!」と元気よく右手(利き手)を挙げられる人でありたいなあと思っているのです。
それだけ、今の瞬間を全力で生きましょうと。過去に執着することなく、未来に未練を残すことなく、今がエンディングでも、結構な人生でしたと言える人生を送りたいなと。
今のところ、良い感じです。例えば今、死神氏が「迎えにきたで」と言ったとしても、「さよか」とあっさり、納得してさようならできる氣がする。
とはいえ、例えば、仔犬が車に轢かれそうになっているときにパッと一歩が出るかどうか、というと、今のところ自信がない。それはもちろん、反射神経の問題もあるけれど(ほっとけ)、大事なところで「足がすくむ」ことはあると思う。
そういう時に、どれだけパッと足が出るか。仔犬を歩道に逃がして、自分が轢かれるとしても、そこの恐れを手放して車道に飛び込めるか。それができないと、ただの口だけの人になってしまうわけで、それはちょっとなあ、と思う。
何というか、こう、大切なもの、大切な人のために命を投げ出すことができる、というと、どーも戦時中の教育を思い起こさせるのですが、まあ、そういう意識も決して悪いばっかりじゃないよね、とは思うのです。
わし流映画鑑賞録『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』
アメリカ版のポスターだって。
■今回も元気にネタバレします。
見てない人も多いだろうから、まずはあらすじ。
簡単に言うと、奥さんの父親がやってる投資会社に勤めてるエリートのデイヴィスが、奥さんを交通事故で亡くす。
奥さんを亡くしても哀しくない。あれ、オレ、奥さん愛してなかったんだ、と思うデイヴィス。
そして(なんか知らんけど)色んなものをぶち壊したくなって(実際にぶち壊して)、ひょんなこと(ホントに「ひょんなこと」だ)から知り合った女(しかもシングルマザーの彼氏持ち)とデキて、自分の生活や義理の両親(義理の父は仕事上のボスなのに!)との関係もぶち壊しかける。
最終的に、デイヴィスは自分が住んでいた家、彼曰く「結婚生活」を破壊しにかかる。そこで、彼はショッキングな物をみつけるのだけれど、それは後で話す。
そうして、破壊し尽くそうとした先に、何があったのか・・・というお話。
■邦題が、なあ。良いんだけども
評価が難しい。原題は「Demolition」。「破壊」とか「打破」という意味らしい。その方が確かに、意味は合ってる。
でも、邦題が「破壊」なんて映画観る?観ないよね。「デモリション」だと、「デモリションマン」とワケわかんなくなりそうだし。
かと言って、邦題のちょっとロマンチックな感じで見始めると、途中まで「なんじゃこりゃ」感が強いワケ。だってホントのタイトルは「破壊」または「打破」なんだもの。
映画の中盤くらいまでは、とにかく物を壊しまくる。破壊衝動なんですかね。しかも、その理由は明らかにはされない。
■くそ映画認定寸前・・・
正直に白状すると、僕は途中まで「くそ映画」の認定をしかけていた。単に、僕の好みではない、ということだけれども。
このまんま、「ハイ、奥さんとの間には愛はなかったけど、色々ぶち壊した結果、真実の愛を見つけたよね~テッテレー」とかなったら、ホントにくそ映画認定しようと思ってた。
しかし。そこは「ダラス・バイヤーズ・クラブ」のジャン・マルク・ヴァレ。きっちりひっくり返してきた。
■この一言のための90分近い前振り
破壊しまくって、しまくって。そして「結婚生活」を破壊中、実は奥さんには愛人がいて、しかもソイツの子を妊娠(中絶)していたことも分かる。しかも義母からは「生めば良かったのに!」とまで言われるデイヴィス。やれやれ。
失意の中、デイヴィスはある人物と出会い、そしてある場所である物を見つける。そして、あることを悟る。
その後、デイヴィスは(しかも、義父に向けて)「愛はありました。おろそかにしていただけで」と話す。そして義父と共に、ある計画を実行する。
あのね。もう、このラストを見せられたら、くそ映画とは言えない。壮大な前振りからの、エンディングへなだれ込む感じ。うん。嫌いじゃない。というか、知らないうちに泣いてた。
色んなものをぶち壊し、ぶち壊して、やっとこさそこにあったものに気付く。そして、再生する。
その姿を描くために、この監督と脚本家は映画の大半を「前振り」である「破壊」に費やした。その割り切り、思い切りには感心する。
万人受けする映画かどうかはわからない。ただ、「自分がくそみたいな男だ」という自覚のある人は、観ると良い。たぶん、少し救われる。なぜなら、僕がそうだから。
自分のライフステージと微妙に重なるところがあって、思わず涙してしまった。決して分かりやすい映画ではないし、ホントに終盤までは「オイオイ」感がスゴイので(ただ、それだけに終盤の畳みかけがゴッツリ来る)、我慢強い人にはおススメ。あと、倦怠期のカップルで観ると良いかもしれない。
ちなみに、奥さんが亡くなったのに哀しくない男が再生する・・・と言えば『永い言い訳』という名作(オレ評)がある。その類似性や相違点についても話したいところなんだけども、それは今度会ったときに話す!
僕にとっての「働くこと」
最近、僕が敬愛している書き手の一人に田中泰延という人がいる。元関西電通のコピーライター(らしい)で、今は辞めてコラムニストというか文筆家というか、本人は「青年失業家」と名乗ってる。しかし、青年て何歳くらいまでかね。別に良いけど。
んで、この田中さん(ヒロノブさん)が、こんなコラムを書いていた。僕はこのコラムを読んで、激しく感動というか、心を動かされた。
■君のクライアントは誰か
このコラム、刺さりポイントがいくつかあってアレなんだけども、特に刺さったのがこの一言。ヒロノブさんが在りし日の父から掛けられた言葉だそうで。
君を働かせるのは、君自身であるべきだ。お前のクライアントは、お前だ
おおう。
会社のために働くことも大切だけれど、それ以上に大切なのは、自分のために、あるいは「自分が見たい世界のために」働くこと。そこまでは書いてないけれど、僕はそう読んだ。
僕の中では「働くこと」は「お金を稼ぐこと」よりも「自分の力を社会のために生かすこと」であり、「その結果、自分が見たい世界に近づくこと」だと考えている、というか、この文章を書いていて氣がついた(笑)。
「自分の力を社会のために生かすこと」ができれば、当然ながら何らかの報酬が得られる。だって、社会のためになってるんだから。まあ、ひょっとすると、直接そのことで収入が得られる訳ではないかもしれないけれど。
■ヒロノブ父は、こうも説く
「ひとりになれ。ひとりで考えよ。そのひとりの時間に、爪を研ぎ牙を磨きなさい。そうすれば必ず道は拓ける」
仲間が助けてくれる、コミュニティーがあるから生きていける。もちろん、そういう考え方もあるし、それは否定しない。というか、それとこの「ひとりになれ」というのは、両立するんだろう。
ひとりの時間を大切にして、充実させられなければ、みんなといる時間が有意義になることはない。僕はそう思う。
何度も言うが、ヒロノブさんもヒロノブ父も、こんなことは全く書いてない。僕が勝手に思ってるだけだ。
さて。僕なら、今の自分に何を発注するだろうか。どうやって、爪を研ぎ、牙を磨くだろうか。そんなことを考えている。
My life is my message
■何を言うかよりも誰が言うか
時に、「何を言うか」より「誰が言うか」が重要なことがある。「時に」と書いたけれど、ひょっとすると7~8割そうかもしれない。
例えば、孫正義が放ったとされる「(私の)髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているのだ」という言葉。
これ、そのへんのただのハゲたおっさんが言っても、響かない(と思う)。実際に(良い悪い、好き嫌いは置いておいて)前進し続けている孫正義が言うから、すげーってなる。
ついでに言うと、そのことをその人が最初に言ったかどうかも、実はあんまり重要ではない感じもする。誰かが言った言葉を引用しても、その引用した人の方がインパクトが強いと、その人が言った言葉みたいになる、こともあるんじゃないか。例は出せないけど。
■その人にはその人なりの
と。ここまで読むと「すると何か?エライヒトやスゴイヒト以外は何か言っちゃダメなのか?」と思う人がいるかもしれない。ちょっと待ってくれ。そうは言ってない。むしろ逆だ。
そのへんのおっさん(という言い方がアレだけども)には、そのおっさんにしか言えないことがある。もっと言えば、そのおっさんは黙ってるだけで、何かを人に伝えているかもしれない。
大切なのは、何を言うかではない。どうあるか、なんじゃないかと思うわけだ。
とまあ、こんなことを書くと冒頭に書いたこと(誰が言うかが重要、というヤツ)がブーメランのように僕の後頭部に刺さるわけなんだけれども。ともかく。流血しながらも続ける。
■いかにあるかを追求したい
「いかにあるか」、つまり「どういう人生を生きるか」。コレに関しては、僕はまたまだ精進しなきゃなあ、と思う。人にとやかく、あれこれ言える立場にはない。
ただ、ともかく、自分が言いと思う、アリだと思う生き方をしていきたいなぁ、自分で見て恥ずかしくない、カッコいいと思える選択をしたいなと。
それが(言葉か、行動かはわからんけど)、どこかで誰かに何かを伝えられれば、それで十分じゃないの。僕はそう思っています。
ゴールから逆算することについて
一応、これでも長いこと社会人として仕事をしているのですが、それでも、「ああなるほど、そういうもんか」と思うことがあります。というか、今までも教わってきたけれど、身に付いていなかったり、単に私がポンコツなだけかもしれませんけれども。
ほっとけ。
最近学んだのは「ゴールから逆算して考える」ということ。
仕事をする際に、最終目的を考えて、そのために今何が必要か、何をすべきかを考えて行動する。ふむ。至極当たり前なんですけども、これがなかなかできない。
■その仕事の最終目的を考える
例えば、資料を作る。ここで最初に考えるべきは「どんな資料を作るか」、ではない。むしろ「その資料を使って、誰が、誰に対して、何を説明し、どういう結果を導きだそうとしているのか」を考える必要がある。
すごーくかっちょいいプレゼン資料を作ったのは良いけれど、自社が提案したいことと真逆なことを書いていたら、意味ない。そりゃそうだ。
でも、時々こういうことをやらかしてしまう。目の前の仕事に集中しすぎて、最終目的を見失ってしまうことがある。
つまり、今何をすべきかを明確にするためには、「最終的に何を目指しているのか」をこそ、明確にしておく必要がある。そうすりゃ、今何が必要かは自然と決まってくる。
■最終目的をはっきりさせる
仕事なら、「社長にプレゼンする」、「取引先に自社製品を買ってもらう」とかまあ、最終目的は割とはっきりしていることが多い(はず)。逆に、最終目的のはっきりしない仕事を延々とさせられるなんて、ベケットかカフカの世界だぜ(文学ジョーク)。
ところがどっこい。こと自分の人生に関することとなると、それがはっきりしないことが出てくる。
「幸せになりたいんや!」と思っているとする。うん。たいていの人は、幸せになりたいと思っているはずだ。でも、その「幸せ」という最終目的の形がはっきりしていなければ、今の行動は決まらないし、的外れなことをしてしまったりする。
第一、幸せの形なんて千差万別だ。大橋巨泉みたいに(例えが古い)セミリタイアして、南国で悠々自適の生活をしたい、それが私の幸せだ!という人もいれば、毎日仕事があって、みんなから頼られる。それが僕の幸せなんです!という人もいる。ひょっとしたら、毎日胡麻をはしでつまんで、茶碗に移す単純作業をして過ごしていたいっ、という変わった希望の持ち主もいるかもしれない。いないか。
とにかく。自分にとって何が幸せなのかは、他人には分からない。だから、自分で見つけるしかない。お金がたくさんあれば幸せかどうかも分からないし、仲間に囲まれているのが必ずしも幸せとは限らない。一人で、とにかく静かに暮らすのが本当に幸せなんです、という人も中にはいるかもしれない。
■自分なりの幸せはどこにある?
そういう自分なりの「幸せ」、あるいは最終目的がはっきりしていれば、それに向かって全力で突き進めば良い。が。雑音も多い。「定年後に○万貯金がないと、老人破産する」とか、「今のうちに貯金しておかないと」とかとか。
いや待てよと。あなたの最終目的は「それなりの老後を送ること」、それでよろしいですか?と聞きたくなる。もちろん、それがイエスなら、まあ良い。そこで「うーん」と考え込んでしまうなら、ちょっと立ち止まった方が良いと思う。
別に貯金することが悪いことだとは思わないし、老後に蓄えを残しておこう、という氣持ちも分かる。でも、人は今を生きている。今幸せであることを目指さないで、「老後のために」ってのも、妙な話だとは思う。しつこいようだけど、そういう考え方もあっていい。
ただ、「何となく、そう言われてるから」とか「そういうもんらしいから」という理由で、自分の幸せを決めているのだとしたら、もったいないと思う。
■かくいう私も
と、ここまでエラソーに書いておいて、僕自身の最終目標は何か?と聞かれると、今はまだ困る。自分がどういう世界を生きたいのか、どういう環境に身を置きたいのか。正直なところ、「コレ!」という答えは出ていない。
ただ、おかげさまで今の仕事は楽しいし、文章を書くことも楽しい。だから、こうして生きているわけだ。
そんなわけで、自分が理想とする世界、最終目的を探してみようと思っている。それが見つかったら、それに向かって、いま成すべきことをすれば良い、ということになる。
というわけで、今は準備段階。ずいぶん長い準備だな、と思われるかもしれないけれど。最終目的が明確でなかったことにすら氣付かずに一生を終えてしまうよりは、大分マシだと今は思っている。
わし流映画鑑賞録『彼らが本気で編むときは、』
『かもめ食堂』、『めがね』などの作品で知られる、荻上直子監督の作品。とか、エラソーに書いてみたけれど、僕はこの2作品とも観たことがない。だから、どういう作風の人かも知らない。ただまあ、そんなにバイオレンス!とか、スプラッター!ではないよねとは思ってたけど。
■ネタバレ前提であらすじをざっくりと。
あらすじをざっくり説明すると、物語は、シングルマザーのヒロミが一人娘のトモを置いて男と蒸発、トモがヒロミの弟にあたるマキオの家に厄介になるところから始まる。
マキオは、トランスジェンダーであり、ヒロミとマキオの母が入居する老人ホームで介護士を勤めるリンコと同棲している。
最初はリンコに拒否反応を示すトモだが、少しずつ心を開きはじめ・・・という話。それ以外にも、例えばトモの同級生に同性愛者(あるいはトランスジェンダーか)の子がいて、とか、ヒロミとマキオの母親は認知症で、とか、色々な話が縦糸、横糸を織りなす。
■これも「疑似家族モノ」
これも、カテゴリー分けするとするならば、僕の好きな「疑似家族モノ」と言えますね。「ゲイカップルと子ども」という文脈で言えば『チョコレートドーナツ』(邦題が悪すぎる)という名画もありましたね。『チョコレートドーナツ』は、ゲイカップルとダウン症の子どものお話。『彼らが本気で編むときは、』も、トランスジェンダーと男性のカップルと子ども。
『チョコレートドーナツ』も大変良い映画なので、ぜひ。邦題が悪すぎる、と言った意味が分かってもらえるはずです。
■この映画は、対照でできている
まあ、何事もそうかもしれないけれど、この映画は特に、対比を際立たせているように感じる。例えば、男と女。大人と子ども。LGBTに理解のある人、ない人。子どもが性的マイノリティであることに理解のある親、ない親。恋人とのパートナーシップがうまく行ってる人、上手く行かない人。差別する側、される側。
どこまでも対照で描かれる。
んで、僕はこの映画を観た感想として「LGBTにもっと理解を示しましょう!」というのとは、ちょっと違うよな、と思った。いや、それはもう、当たり前の当たり前、前提としてあるけれど。
ちなみに、トランスジェンダーへの偏見、差別はそれこそ、イヤってほど描かれる。時に悲しくもなり、時に憤りも覚えるほどに。それもそうなんだけど、それは、この映画が描こうとしたテーマの一側面に過ぎないのではないかと。
■この映画は、何を言わんとしているのか
この物語は、全ての「弱き人たち」に対して、愛を贈ろうとしてるんじゃないかと。
映画には、たくさんの「弱き人たち」が登場する。リンコさんのようにトランスジェンダーで、世間から差別や誤解の眼で観られている人。痴呆症で、施設に入っている人たち。大人の庇護を受けないと生きられない子どもたち。自分の子どもは大切だけど、自分の人生も棄てきれないシングルマザー。痴呆症の親を施設に入れることに引っかかりを覚えている息子。
この映画に登場する人たちは、それぞれに悩み、迷っている。悩みや迷いの深さはそれぞれではあるけれど。でも、私は勝手に「それでも、生きていこうよ」というメッセージを受け取った。
人はそれぞれに、悩みや迷いを抱えながら生きている。怒りを覚えたり、悔しい思いをすることだってある。リンコさんはそんな時、怒りや悔しさが通り過ぎるまで、じっと待つという。「それでも通り過ぎないときは?」と重ねてトモに尋ねられたリンコさんは、編み物をするのだという。怒りや悔しさ、時には悲しみや寂しさを抱えて編み物をしていると、いつの間にか、心のモヤモヤが晴れていく、という。
怒りや悲しみや、悩みや迷いや、悔しさや憤りや。そんな色々なものを抱えながら、それでも、生きていく。それは、性的マイノリティであろうとなかろうと、どんな人でも同じこと。僕は、この映画からそういうメッセージを受け取りました。そういう意味でも、とても良い映画でした。