ゴールから逆算することについて
一応、これでも長いこと社会人として仕事をしているのですが、それでも、「ああなるほど、そういうもんか」と思うことがあります。というか、今までも教わってきたけれど、身に付いていなかったり、単に私がポンコツなだけかもしれませんけれども。
ほっとけ。
最近学んだのは「ゴールから逆算して考える」ということ。
仕事をする際に、最終目的を考えて、そのために今何が必要か、何をすべきかを考えて行動する。ふむ。至極当たり前なんですけども、これがなかなかできない。
■その仕事の最終目的を考える
例えば、資料を作る。ここで最初に考えるべきは「どんな資料を作るか」、ではない。むしろ「その資料を使って、誰が、誰に対して、何を説明し、どういう結果を導きだそうとしているのか」を考える必要がある。
すごーくかっちょいいプレゼン資料を作ったのは良いけれど、自社が提案したいことと真逆なことを書いていたら、意味ない。そりゃそうだ。
でも、時々こういうことをやらかしてしまう。目の前の仕事に集中しすぎて、最終目的を見失ってしまうことがある。
つまり、今何をすべきかを明確にするためには、「最終的に何を目指しているのか」をこそ、明確にしておく必要がある。そうすりゃ、今何が必要かは自然と決まってくる。
■最終目的をはっきりさせる
仕事なら、「社長にプレゼンする」、「取引先に自社製品を買ってもらう」とかまあ、最終目的は割とはっきりしていることが多い(はず)。逆に、最終目的のはっきりしない仕事を延々とさせられるなんて、ベケットかカフカの世界だぜ(文学ジョーク)。
ところがどっこい。こと自分の人生に関することとなると、それがはっきりしないことが出てくる。
「幸せになりたいんや!」と思っているとする。うん。たいていの人は、幸せになりたいと思っているはずだ。でも、その「幸せ」という最終目的の形がはっきりしていなければ、今の行動は決まらないし、的外れなことをしてしまったりする。
第一、幸せの形なんて千差万別だ。大橋巨泉みたいに(例えが古い)セミリタイアして、南国で悠々自適の生活をしたい、それが私の幸せだ!という人もいれば、毎日仕事があって、みんなから頼られる。それが僕の幸せなんです!という人もいる。ひょっとしたら、毎日胡麻をはしでつまんで、茶碗に移す単純作業をして過ごしていたいっ、という変わった希望の持ち主もいるかもしれない。いないか。
とにかく。自分にとって何が幸せなのかは、他人には分からない。だから、自分で見つけるしかない。お金がたくさんあれば幸せかどうかも分からないし、仲間に囲まれているのが必ずしも幸せとは限らない。一人で、とにかく静かに暮らすのが本当に幸せなんです、という人も中にはいるかもしれない。
■自分なりの幸せはどこにある?
そういう自分なりの「幸せ」、あるいは最終目的がはっきりしていれば、それに向かって全力で突き進めば良い。が。雑音も多い。「定年後に○万貯金がないと、老人破産する」とか、「今のうちに貯金しておかないと」とかとか。
いや待てよと。あなたの最終目的は「それなりの老後を送ること」、それでよろしいですか?と聞きたくなる。もちろん、それがイエスなら、まあ良い。そこで「うーん」と考え込んでしまうなら、ちょっと立ち止まった方が良いと思う。
別に貯金することが悪いことだとは思わないし、老後に蓄えを残しておこう、という氣持ちも分かる。でも、人は今を生きている。今幸せであることを目指さないで、「老後のために」ってのも、妙な話だとは思う。しつこいようだけど、そういう考え方もあっていい。
ただ、「何となく、そう言われてるから」とか「そういうもんらしいから」という理由で、自分の幸せを決めているのだとしたら、もったいないと思う。
■かくいう私も
と、ここまでエラソーに書いておいて、僕自身の最終目標は何か?と聞かれると、今はまだ困る。自分がどういう世界を生きたいのか、どういう環境に身を置きたいのか。正直なところ、「コレ!」という答えは出ていない。
ただ、おかげさまで今の仕事は楽しいし、文章を書くことも楽しい。だから、こうして生きているわけだ。
そんなわけで、自分が理想とする世界、最終目的を探してみようと思っている。それが見つかったら、それに向かって、いま成すべきことをすれば良い、ということになる。
というわけで、今は準備段階。ずいぶん長い準備だな、と思われるかもしれないけれど。最終目的が明確でなかったことにすら氣付かずに一生を終えてしまうよりは、大分マシだと今は思っている。
わし流映画鑑賞録『彼らが本気で編むときは、』
『かもめ食堂』、『めがね』などの作品で知られる、荻上直子監督の作品。とか、エラソーに書いてみたけれど、僕はこの2作品とも観たことがない。だから、どういう作風の人かも知らない。ただまあ、そんなにバイオレンス!とか、スプラッター!ではないよねとは思ってたけど。
■ネタバレ前提であらすじをざっくりと。
あらすじをざっくり説明すると、物語は、シングルマザーのヒロミが一人娘のトモを置いて男と蒸発、トモがヒロミの弟にあたるマキオの家に厄介になるところから始まる。
マキオは、トランスジェンダーであり、ヒロミとマキオの母が入居する老人ホームで介護士を勤めるリンコと同棲している。
最初はリンコに拒否反応を示すトモだが、少しずつ心を開きはじめ・・・という話。それ以外にも、例えばトモの同級生に同性愛者(あるいはトランスジェンダーか)の子がいて、とか、ヒロミとマキオの母親は認知症で、とか、色々な話が縦糸、横糸を織りなす。
■これも「疑似家族モノ」
これも、カテゴリー分けするとするならば、僕の好きな「疑似家族モノ」と言えますね。「ゲイカップルと子ども」という文脈で言えば『チョコレートドーナツ』(邦題が悪すぎる)という名画もありましたね。『チョコレートドーナツ』は、ゲイカップルとダウン症の子どものお話。『彼らが本気で編むときは、』も、トランスジェンダーと男性のカップルと子ども。
『チョコレートドーナツ』も大変良い映画なので、ぜひ。邦題が悪すぎる、と言った意味が分かってもらえるはずです。
■この映画は、対照でできている
まあ、何事もそうかもしれないけれど、この映画は特に、対比を際立たせているように感じる。例えば、男と女。大人と子ども。LGBTに理解のある人、ない人。子どもが性的マイノリティであることに理解のある親、ない親。恋人とのパートナーシップがうまく行ってる人、上手く行かない人。差別する側、される側。
どこまでも対照で描かれる。
んで、僕はこの映画を観た感想として「LGBTにもっと理解を示しましょう!」というのとは、ちょっと違うよな、と思った。いや、それはもう、当たり前の当たり前、前提としてあるけれど。
ちなみに、トランスジェンダーへの偏見、差別はそれこそ、イヤってほど描かれる。時に悲しくもなり、時に憤りも覚えるほどに。それもそうなんだけど、それは、この映画が描こうとしたテーマの一側面に過ぎないのではないかと。
■この映画は、何を言わんとしているのか
この物語は、全ての「弱き人たち」に対して、愛を贈ろうとしてるんじゃないかと。
映画には、たくさんの「弱き人たち」が登場する。リンコさんのようにトランスジェンダーで、世間から差別や誤解の眼で観られている人。痴呆症で、施設に入っている人たち。大人の庇護を受けないと生きられない子どもたち。自分の子どもは大切だけど、自分の人生も棄てきれないシングルマザー。痴呆症の親を施設に入れることに引っかかりを覚えている息子。
この映画に登場する人たちは、それぞれに悩み、迷っている。悩みや迷いの深さはそれぞれではあるけれど。でも、私は勝手に「それでも、生きていこうよ」というメッセージを受け取った。
人はそれぞれに、悩みや迷いを抱えながら生きている。怒りを覚えたり、悔しい思いをすることだってある。リンコさんはそんな時、怒りや悔しさが通り過ぎるまで、じっと待つという。「それでも通り過ぎないときは?」と重ねてトモに尋ねられたリンコさんは、編み物をするのだという。怒りや悔しさ、時には悲しみや寂しさを抱えて編み物をしていると、いつの間にか、心のモヤモヤが晴れていく、という。
怒りや悲しみや、悩みや迷いや、悔しさや憤りや。そんな色々なものを抱えながら、それでも、生きていく。それは、性的マイノリティであろうとなかろうと、どんな人でも同じこと。僕は、この映画からそういうメッセージを受け取りました。そういう意味でも、とても良い映画でした。
失敗しよう、そうしよう、の境地
最近のマイブームは「映画」と「自転車」と「禅」
■運がいい僕について
自分でも、ブログに書いたか書かなかったか、もう忘れてしまっているところもあるのだけれど、良い機会なのでもう一度書きます。
僕は非常に運がいい。というか、ラッキーな人生を歩んできた、と思っている。
例えば、小・中学時代に絶望的なほど算数・数学が嫌いで、高校すら3科目で入れる、決して偏差値が高くない高校を選んだにもかかわらず、結果として大学まで卒業できていたり。
大学入試でも、一浪して不退転の覚悟で臨んだ(はず)の受験にことごとく失敗し、最後の望みが潰えた・・・!と思われた翌日に、思いもよらない補欠合格の通知が舞い込んだり。
まあ、運が良いというか、ラッキーな星の下に生まれているなとつくづく思う。
ただ、だから、かどうかは分からないけれど、よく言えば慎重、悪く言えば臆病な性格だった。その割に、何の根拠もなく「東京六大学のどこかには受かるだろ」と安易に考え、滑り止めの大学を受けないという謎の行動に出たりもする。
ともかく。その慎重さ、あるいは臆病さのおかげか、40歳になるまでそこまで大きな病気もせず、大けがもなく、本当に大過なく生きてきた。これは、頑丈な作りにしてくれた母と父に感謝しています。
■ちょっとやそっとでは死なない
んで、そういう人生を生きてきて、今だから言えるのが「ちょっとやそっとの失敗では、死にゃあしない」ということ。
僕は長らく「失敗しない」ことを第一優先にしてきました。あるいは「失敗してはいけない」と思い込んできた。特に社会人になってからは、冒険はせず、(比較的)堅実な人生を送ってきました。
でも、「失敗しない」ことは、良いことでもある一方、恐ろしいことでもあるなあ、と思います。失敗しないということは、「間違いに氣付けない」という可能性もはらんでいるから。
自転車に一発で乗れる人は、そういませんよね。補助輪付きから始めても、補助輪を外してから、ちゃんと二輪で走れるようになるまでには、何度かの失敗を経験することになる。
自動車免許もそうでしょう。大事故を起こしちゃった、なんて重大な失敗はともかくとしても、免許を取得するまでには小さな失敗を何度か積み重ねる。切り返しがうまくいかないとか、縦列駐車がどーしてもうまくできないとか、ある訳ですよ、いろいろ。
でも「誰か、私の代わりに失敗してくれませんかね」という訳にはいかない。「他人の失敗から学ぶ」ことは出来たとしても、それはどこまで行っても他人の失敗であって、自分に100%置き換えが効くとは限らないわけです。
何しろ、失敗のパターンは人それぞれに違う。つまり、自分が「失敗しやすい」パターンを経験して、そこから学んでいくことが、自分にとって一番学びになるはずなわけで。
■沢庵さんもこう言っている
ということを人からは以前から聞いていたのだけれど、最近実感できた。運良く、特に大きな失敗もせずにここまで来たのは良いとして、失敗してもエエやないか、という心持ちで生きたいなあ、と思い始めた。
で、ふと調べてみたら、こんな言葉が出てきた。
粗相があったからといって、別に命まで取られるわけではない。
安土桃山時代から江戸時代初期の臨済宗の僧侶、沢庵の言葉、とされていますが、真偽のほどは分かりません(ネットに書いてあるだけだし)。ただまあ、こういう心持ちで常にありたいな、と思う訳です。
引用元はこちら。
人は、ちょっとやそっとの失敗くらいでは、死なない。死ぬような失敗をしたときは、そらもう、あきらめるしかない。「運が悪かった」と。
何か失敗したなあ、と思ったら、「それだけ勉強になったね、良かったね」と思える自分でありたいなと。だって、命まで取られるわけじゃないんだから。
生きてれば、その失敗を糧にして、成功できる日も来るだろう、そんな風に考えて生きております。
遊牧民というか、ホームレスというか
■持ち物を減らしたい
持ち物を減らしたいと思っています。とまあ、こんな話を前も書いた氣もしますけれども。
少し前に、服を10着くらいしか持ってない人に会って衝撃と影響を受けました。しかも女子で、しかもちゃんと、こぎれいに見えるからすごい。いや、彼女からその話を聞いたとき、服なんてそんなもんで良いのかも・・・と思ってしまいましたよ。
翻って、我が身のモノの多さよ。洋服だけでも段ボール5〜6箱分くらいはありそうだし、夏物、冬物とか仕分けていくと、すごい量になる。どうやったら、10着で着回せるんや・・・。
■モノを減らすというよりは
身軽になりたい、という願望かもしれない。
デカいトートバッグみたいなものに自分の全持ち物を入れて、それがあればどこでも生活できる、みたいな生活が、今の僕の理想である。百歩譲って、スーツケース1個でもいい。
実際にそういう生活をしている人はいるわけで、自分にできないはずがない、と思う。後は、モノを減らしていくだけだ・・・とは思うのだけれど、なかなか踏ん切りがつかない。
■最近のクラウドサービスの便利さ
各種クラウドサービスが発達して、パソコンやスマホの本体にデータを残しておくことが少なくなった。
急に何を言い出したかと思うかもしれないが、安心してほしい。私の中ではつながっている。
昔は、携帯のキャリアを替えるとメールアドレスが変わるとか、アドレス帳を移し替えないと、とか色々メンドーなことがあった。
が。最近の私はgmailを使っているから、スマホからでもパソコンからでも、同じ情報にアクセスできる。だから、メールアドレスについて氣にすることがなくなった。
また、今私が作っているテキストも、まずはクラウドベースのメモアプリに打ち込んで、そこからブログに展開している。クラウドだから、スマホでざざざっと打っておいて、後でパソコンから細部を整えるなんてこともできる。
■生活のクラウド化
生活も、そんな感じにならんかなーと思うのだ。極力荷物を減らして、必要なものは取り出せるけれど、手元には置いておかない。
思い立ったときに、パッと移動して、そこで生きていける。言ってみりゃ遊牧民のような暮らし。突き詰めると、これが理想。
もちろん、現実的には色々ある。毎日会社に行かなきゃいけないとか、生活の基盤をきちんとしないととか、まあ色々。
ただ、現在地として、がっちりどこかに根を張って生きるというよりは、いろいろな所に拠点を持って(あるいは拠点すら持たずに)生きたい。
とりあえず、持ち物を減らすところから始めるか。
3月11日
なんかこう、身構えてそれっぽいことを書こう、というつもりはないのだけれど。
それにしても、もう6年も経つのか、という思いが強い。僕の中では「ついこの間のこと」という感覚が続いている。
ちょっとした瞬間に「ああ、あれは震災前のことだったか」とか「あの人に会ったのは、震災後だったっけ」とか、2011年3月11日を何か、起点というかポイントのように考えることがある。
戦前、戦後に近いかもしれないけれど、たぶん少し違う。
ともかく。僕の中で、2011年3月11日という日が、ものすごく大きな意味を持った(あるいは、持っている)ことは間違いない。
■幸いにして、だけれども
僕自身が被災したわけではないし、直接の友人、知人を亡くしたということもない。ただ、知り合いが被災したり、知り合いの友人が亡くなったという話は聞いた。
「震災の記憶を風化させてはいけない!」みたいなことを言うつもりはない。人は忘れる生き物だし、忘れないとやってけない、ということだってあるはずだ。
ただ、僕自身はたぶん、あの日以前の感覚に戻ることはもうないと思う。僕はあの日以降、都市生活の脆弱さを痛感したし、電気に頼り切っている生活に氣付いた。
そして、一連の福島第一原発の事故について見ていて、自分の手に負えない物は使わない方が良いんじゃないか、という考えに至った。
いや、この辺に関しては色々ご意見あるだろうけれど、僕の見解としては原子力を発電に使うのは、ちょっと無理がある、というか、手に負えてない感じがする。ただまあ、この辺は今回の記事で言いたいことではないので、この辺にする。
■自然と共存する生き方について
僕が震災を経験して感じたのは、人間はどうやったら、もっと自然と共存していけるんだろうか、ということだった。
津波が来るから、それに耐えられるだけの堤防を作りましょう。うん。それもまあ、理屈としては分かる。でも、それでどれだけの津波を防げるんだろうか。そして、仮に津波を防げたとして、海の前にそんなバカでかい壁をおっ立てて、その陰で生活するのが、本当に幸せなんだろうか。
こう書くと、お前は東京にのうのうと住んでるからそんなことが言えるんだ、と言われるかもしれない。確かに。でも、日本のどこに住んでいても(いや、下手すりゃ世界のどこにいても)、自然の脅威から完全に逃げおおせることなんてない。ならば、どうすれば自然とより共存できるかを考える方が、僕は理屈が通っている、と考えている。
自然をどうにかすることは(今のところ)できないわけだし、それならばなおのこと、自然と上手に生きていく、あるいは、自然の一部としての人間として、いかに生きていくかを考える方が、はるかに良いんじゃないかと思っている。
■この記事、まとまらない予感
このところ、「自然はすごいな」と思う。そして、時々「怖いな」とも思う。そういう時、どうすればより、人間が自然の一部として、自然な形で生きていけるのかを考えたいなあと思っている。
もちろん、都会に暮らして、真四角な部屋の中に住んで、電気を大量に使って、時に排気ガスをいっぱい出す乗り物に乗っている僕が言うのも何だとは思うんだけども。
うん。予想通りまとまらない(笑)。ただともかく、3月11日は僕にとってとても特別な日になっているということと、人間はもっと自然に還っても良いのかもしれないね、と思っていることだけ伝われば、今日のところはそれで良いです。
外食論
バッファローパン。キン肉マンとか、天山というキーワードが浮かんだ方はナカーマ
僕はあまり外食をしないほうだけれど、「自分が好きな店」、特に個人でやってるお店がいくつかあるというのは、とても良い感じがする。
僕はどちらかと言えば(と言うよりも、圧倒的に)人見知りで、人と話すのが得意でないので、常連になって店の人と談笑する、なんてのは苦手である。また、酒が呑めないので、酔った勢いで隣の常連と仲良くなる、なんてことも(今までのところ)ない。
それでも、自分が「この店は好きだな」、「信用出来るな」店で食事をするというのは、それだけでとても嬉しい。
■店や、出された食事に対する敬意
そういう店に行くと、自然と店自体や働いている人、お客さんに対して敬意を払うようになる。自分が好きな店を切り盛りしてくれる店員さんに横柄な態度をとるはずがないし、自分が好きな店で食事をしたり、飲んだりしているお客さんに、文句を言ったりするはずもない。
また、提供されたものに対しても、当然ながら敬意を払うことになる。
Twitterを見ていたら(やってます。こっそりと)、こんなtweetが流れてきた。
【暗い話題】大は多いので初めての方は小でと再三お願いしたのにいいから大全部マシ。金払えば何してもいいと言う勘違いした態度。半分以上残した後笑いながら食えるわけねーよ。とクソ野郎三連コンボのお客様がいらしたので帰り際に人生初の「2度と来ないでくださいね〜♡」が自然と口から出てて驚く
— ラーメン二郎仙台店 (@jiro_sendai1023) 2017年3月5日
案の定、荒れてた。まあ、そりゃそうだよね、きっと。
ただ、店主の言いたいことも分かる、というか、どちらかと言えば僕は店主支持派だ。「お金を出せば、客は何してもいい」なんてことが、あるはずがない。
飲食店にも色々あるけれど、どの店だってそれなりに精魂込めて食事を作り、提供しているわけだ。それを面白半分に注文して、残す。
これは、作り手はもちろん、命を捧げてくれた食材に対しても冒涜だ。到底許されるものではない、と僕は思う。もうこれは、金を出してる、出してないの問題ではない。
「金払ってるから良いじゃないか」という人は、まず、「金を払ってる人が偉い」と思ったら大間違いだ、と申し上げる。
本来、自分でめしを作らねばならないのに、代わりに作ってくれる。そのお礼にお金を払ってるだけであって、「金を払ってる客が偉い」なんてことがあるはずがない。
逆もまたしかりで、やたらと客に文句を言ったり、食い方にいちいち注文を付けたり、オーダーの伝え方がままならないと不機嫌になるような店もまた、何かを間違っていると思う。
それから、「金を払ったから、残そうがどうしようが勝手」という人には、あなたのために命を捧げた食材と、あなたのために時間と手間を割いて、精魂込めて食事を作ってくれた人双方に対する敬意がない、と言っとく。
大盛にするなら(意地でも)残すな。これが僕の大盛道である。
■自然と感謝が生まれる
自分が好きな店、良い店に行くと、自然と「ありがたいな」という気持ちになる。めしを作るのは、決して楽なことではない。これは、自分で作ってみれば分かる。
例えばラーメン。きちんとスープを取ろうと思ったら、かなりの時間と手間がかかる。信用できる店、良い店は、それをきちんとやってる。仕事だから当たり前、と思うかもしれないが、そう簡単なことではない。
客に美味いものを提供したいという店の人の情熱をそこに感じると、「やってくれている」という感謝が生まれる。だから、スープまできっちり飲みたくなってしまう。結果、デブまっしぐらなんだけれども。
うどんやそばもそうで。自分で鰹節と昆布でだしを取ってみたりすると、スープを残すのが何というか、申し訳ない気持ちになる。せっかくだしを取ってくれたのに!という気持ちに、自然となる。まあ、塩分過多とかは良いじゃないか、この際。
そりゃ、明らかに出来合いのタレをお湯で薄めただけ、というスープならば、僕も進んで飲もうとまでは思わないかもしれない(いや、飲むかもしれないけど)。
でも、信用できる店で、明らかにスープまでこだわって作ってる場合は、残して帰るのがどうも忍びないというか、もったいないと感じてしまう。
美味しいラーメン(に限らないけど)のために、一生懸命仕事をしてくれたんだなあ、と思うと、全て美味しくいただいてこそだよな、と思ったりする。
■お金の使い方も変わる
ついでに、そういう信用できる店に行くと、ケチケチしたくなくなる。むろん、無い袖は振れないけれど、ちょっと高いくらいだったら、まあいいかと思う。
例えば、同じ100円でも、「惜しい100円」と「惜しくない100円」がある。
例えば、コンビニでおにぎりを買う100円は、僕にとってはちょっと惜しい。できれば、コンビニのおにぎりに100円も出したくはないのだけれど、お腹を満たすには仕方がない、という感じ。
一方、好きな店に行って、「並」が700円、「上」が800円だとしたら、たぶん「上」を頼む。その100円は、惜しくない。だって、その分良いものを出してくれることは分かっているから。
好きな店、良い店とは、信頼関係でつながるような氣がする。この店なら「価格通り、それ以上のものを出してくれる」という信頼感、あるいは安心感を感じさせてくれるのが、僕にとっての良い店だったりする。
できるだけ、そういう店で食事をしたいなあと思うし、そういう店を応援したいなと思う。安かったり、便利なのも良いんだけれど、「僕のために美味しい食事を用意してくれたんだ!」と思えるような店でこそ、めしを食べたいなあと思う。
思い込みで考えない人になりたい
■前回のあらすじ
そうそう。ステレオタイプで話をする人が苦手、という話だった。そして、自分自身もステレオタイプや思い込みで物事を判断したり、考えてしまいがちだということ。これが前回のあらすじ。
なんだよ。前回のブログ、これだけで済むんじゃないか。
まあいい。
ともかく。僕は長いこと、「ベジタリアンなんて、何が楽しいんだろうか」と思ってたわけです。人間、肉や魚を食べるのが楽しいし美味しいのだと。
で、精進料理なんかで大豆や豆腐を肉や魚っぽく調理するのも、ちゃんちゃらおかしいと思っていて、それなら肉や魚を食べれば良いじゃないか、無理してベジタリアンや精進料理なんて作って無駄なエネルギーを使って、つまんない代替品を食べるなんて無意味だねと思っていたのです。
ええ、今にして思えば愚かにも。
■肉食は効率が悪い、という話
現時点、僕は別にベジタリアンでもなければヴィーガン主義者でもない(今のところ)。肉も魚も食べるし、小麦粉も食べるから、グルテンフリーでもない。でも、「ちょっと待てよ」と思うことは多い。
僕は「家畜が可哀そうだから」という理由で、菜食主義を採ることはできない。なぜなら、菜食主義だって植物の命を奪っていることに違いはないから。
むろん、ナッツや果物のように、動物に食べられることを前提にしている(それによって、種子が運ばれたり、受粉したり)ものだけ食べる、という考え方もあるけれど、それもちょっと言い訳っぽいなー、と感じる。
ただ、「畜産には必要以上にエネルギーが必要」というのは、確かにそうかもね、と思う。様々な試算があり得ると思うけれど、こちらのサイトによれば、1キロの牛肉を生産するために10キロの穀類が必要だという。10人前の穀類を使って、1人前の牛肉を作るような計算になる。
そう考えると、どうして吉〇家や〇屋などは、あんなに安く牛丼を提供できるんだろうか・・・?と不思議に感じる。いや、僕だって牛丼はたまに食べるし、否定するつもりもないのだけれど。
■大豆ミートは単純に「美味しい」
思い込みで言うと、「肉の代替品なんておいしくない」というのもある。大豆で作ったお肉代わりの食品なんて、どうせ代替品なんだから、美味しいわけがない、と。ところが、これも勝手な思い込みだった。
ちゃんと美味しいのである。
僕の友人にも、大豆ミートを使った料理を作っている人が数人いる。話を聞くと「肉よりももたれなくて良い」、「味も肉と区別が付かない」という。「もはや代替品というより、これが当たり前」という人もいた。味以外のメリットで言えば「乾物だから、保存が効くから楽」とも。
僕も試しに、と思って食べてみたら、これがまあ、普通に肉みたいな食感だし、味わいもある。食べてもみずに「どうせ美味しくない」とは言えない。食べれば、たぶん(ほとんどの人は)美味しい、と思うはずだ。
■こういうことって、世の中にたくさんあるんだろうな
何となくのイメージだったり、昔の印象が今も残ってしまっているということが、きっとあるんだろうと思う。
ひょっとしたら、昔の大豆ミート(と呼ばれているらしい)は、あまり良い大豆を使っていなかったりして、確かに美味しくなかったのかもしれない。あるいは、今も美味しいものと、美味しくないものがあるのかもしれない。
ただ、それを昔1度食べただけの知識で「アレは美味しくない」と決めつけるのは、乱暴だよなと思う。技術は進化する。世の中は変わるし、人もまた変わるわけだ。
でも、人は思い込みの呪縛から逃れられないこともある。残念だけど。ただ、そのことを頭に入れておければ、「ああ、今私は思い込みで判断したな」と自覚できる。そういう人に、私はなりたい。