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遊牧民というか、ホームレスというか

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■持ち物を減らしたい

持ち物を減らしたいと思っています。とまあ、こんな話を前も書いた氣もしますけれども。

 

少し前に、服を10着くらいしか持ってない人に会って衝撃と影響を受けました。しかも女子で、しかもちゃんと、こぎれいに見えるからすごい。いや、彼女からその話を聞いたとき、服なんてそんなもんで良いのかも・・・と思ってしまいましたよ。

 

翻って、我が身のモノの多さよ。洋服だけでも段ボール5〜6箱分くらいはありそうだし、夏物、冬物とか仕分けていくと、すごい量になる。どうやったら、10着で着回せるんや・・・。

 

■モノを減らすというよりは

身軽になりたい、という願望かもしれない。

 

デカいトートバッグみたいなものに自分の全持ち物を入れて、それがあればどこでも生活できる、みたいな生活が、今の僕の理想である。百歩譲って、スーツケース1個でもいい。

 

実際にそういう生活をしている人はいるわけで、自分にできないはずがない、と思う。後は、モノを減らしていくだけだ・・・とは思うのだけれど、なかなか踏ん切りがつかない。

 

■最近のクラウドサービスの便利さ

各種クラウドサービスが発達して、パソコンやスマホの本体にデータを残しておくことが少なくなった。

 

急に何を言い出したかと思うかもしれないが、安心してほしい。私の中ではつながっている。

 

昔は、携帯のキャリアを替えるとメールアドレスが変わるとか、アドレス帳を移し替えないと、とか色々メンドーなことがあった。

 

が。最近の私はgmailを使っているから、スマホからでもパソコンからでも、同じ情報にアクセスできる。だから、メールアドレスについて氣にすることがなくなった。

 

また、今私が作っているテキストも、まずはクラウドベースのメモアプリに打ち込んで、そこからブログに展開している。クラウドだから、スマホでざざざっと打っておいて、後でパソコンから細部を整えるなんてこともできる。

 

■生活のクラウド

生活も、そんな感じにならんかなーと思うのだ。極力荷物を減らして、必要なものは取り出せるけれど、手元には置いておかない。

 

思い立ったときに、パッと移動して、そこで生きていける。言ってみりゃ遊牧民のような暮らし。突き詰めると、これが理想。

 

もちろん、現実的には色々ある。毎日会社に行かなきゃいけないとか、生活の基盤をきちんとしないととか、まあ色々。

 

ただ、現在地として、がっちりどこかに根を張って生きるというよりは、いろいろな所に拠点を持って(あるいは拠点すら持たずに)生きたい。

 

とりあえず、持ち物を減らすところから始めるか。

3月11日


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なんかこう、身構えてそれっぽいことを書こう、というつもりはないのだけれど。

 

それにしても、もう6年も経つのか、という思いが強い。僕の中では「ついこの間のこと」という感覚が続いている。

 

ちょっとした瞬間に「ああ、あれは震災前のことだったか」とか「あの人に会ったのは、震災後だったっけ」とか、2011年3月11日を何か、起点というかポイントのように考えることがある。

 

戦前、戦後に近いかもしれないけれど、たぶん少し違う。

 

ともかく。僕の中で、2011年3月11日という日が、ものすごく大きな意味を持った(あるいは、持っている)ことは間違いない。

 

■幸いにして、だけれども

僕自身が被災したわけではないし、直接の友人、知人を亡くしたということもない。ただ、知り合いが被災したり、知り合いの友人が亡くなったという話は聞いた。

 

「震災の記憶を風化させてはいけない!」みたいなことを言うつもりはない。人は忘れる生き物だし、忘れないとやってけない、ということだってあるはずだ。

 

ただ、僕自身はたぶん、あの日以前の感覚に戻ることはもうないと思う。僕はあの日以降、都市生活の脆弱さを痛感したし、電気に頼り切っている生活に氣付いた。

 

そして、一連の福島第一原発の事故について見ていて、自分の手に負えない物は使わない方が良いんじゃないか、という考えに至った。

 

いや、この辺に関しては色々ご意見あるだろうけれど、僕の見解としては原子力を発電に使うのは、ちょっと無理がある、というか、手に負えてない感じがする。ただまあ、この辺は今回の記事で言いたいことではないので、この辺にする。

 

■自然と共存する生き方について

僕が震災を経験して感じたのは、人間はどうやったら、もっと自然と共存していけるんだろうか、ということだった。

 

津波が来るから、それに耐えられるだけの堤防を作りましょう。うん。それもまあ、理屈としては分かる。でも、それでどれだけの津波を防げるんだろうか。そして、仮に津波を防げたとして、海の前にそんなバカでかい壁をおっ立てて、その陰で生活するのが、本当に幸せなんだろうか。

 

こう書くと、お前は東京にのうのうと住んでるからそんなことが言えるんだ、と言われるかもしれない。確かに。でも、日本のどこに住んでいても(いや、下手すりゃ世界のどこにいても)、自然の脅威から完全に逃げおおせることなんてない。ならば、どうすれば自然とより共存できるかを考える方が、僕は理屈が通っている、と考えている。

 

自然をどうにかすることは(今のところ)できないわけだし、それならばなおのこと、自然と上手に生きていく、あるいは、自然の一部としての人間として、いかに生きていくかを考える方が、はるかに良いんじゃないかと思っている。

 

■この記事、まとまらない予感

このところ、「自然はすごいな」と思う。そして、時々「怖いな」とも思う。そういう時、どうすればより、人間が自然の一部として、自然な形で生きていけるのかを考えたいなあと思っている。

 

もちろん、都会に暮らして、真四角な部屋の中に住んで、電気を大量に使って、時に排気ガスをいっぱい出す乗り物に乗っている僕が言うのも何だとは思うんだけども。

 

うん。予想通りまとまらない(笑)。ただともかく、3月11日は僕にとってとても特別な日になっているということと、人間はもっと自然に還っても良いのかもしれないね、と思っていることだけ伝われば、今日のところはそれで良いです。

外食論

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バッファローパン。キン肉マンとか、天山というキーワードが浮かんだ方はナカーマ

 

僕はあまり外食をしないほうだけれど、「自分が好きな店」、特に個人でやってるお店がいくつかあるというのは、とても良い感じがする。

 

僕はどちらかと言えば(と言うよりも、圧倒的に)人見知りで、人と話すのが得意でないので、常連になって店の人と談笑する、なんてのは苦手である。また、酒が呑めないので、酔った勢いで隣の常連と仲良くなる、なんてことも(今までのところ)ない。

 

それでも、自分が「この店は好きだな」、「信用出来るな」店で食事をするというのは、それだけでとても嬉しい。

 

■店や、出された食事に対する敬意

そういう店に行くと、自然と店自体や働いている人、お客さんに対して敬意を払うようになる。自分が好きな店を切り盛りしてくれる店員さんに横柄な態度をとるはずがないし、自分が好きな店で食事をしたり、飲んだりしているお客さんに、文句を言ったりするはずもない。

 

また、提供されたものに対しても、当然ながら敬意を払うことになる。

 

Twitterを見ていたら(やってます。こっそりと)、こんなtweetが流れてきた。

 

 

案の定、荒れてた。まあ、そりゃそうだよね、きっと。

 

ただ、店主の言いたいことも分かる、というか、どちらかと言えば僕は店主支持派だ。「お金を出せば、客は何してもいい」なんてことが、あるはずがない。

 

飲食店にも色々あるけれど、どの店だってそれなりに精魂込めて食事を作り、提供しているわけだ。それを面白半分に注文して、残す。

 

これは、作り手はもちろん、命を捧げてくれた食材に対しても冒涜だ。到底許されるものではない、と僕は思う。もうこれは、金を出してる、出してないの問題ではない。

 

「金払ってるから良いじゃないか」という人は、まず、「金を払ってる人が偉い」と思ったら大間違いだ、と申し上げる。

 

本来、自分でめしを作らねばならないのに、代わりに作ってくれる。そのお礼にお金を払ってるだけであって、「金を払ってる客が偉い」なんてことがあるはずがない。

 

逆もまたしかりで、やたらと客に文句を言ったり、食い方にいちいち注文を付けたり、オーダーの伝え方がままならないと不機嫌になるような店もまた、何かを間違っていると思う。

 

それから、「金を払ったから、残そうがどうしようが勝手」という人には、あなたのために命を捧げた食材と、あなたのために時間と手間を割いて、精魂込めて食事を作ってくれた人双方に対する敬意がない、と言っとく。

 

大盛にするなら(意地でも)残すな。これが僕の大盛道である。

 

■自然と感謝が生まれる

自分が好きな店、良い店に行くと、自然と「ありがたいな」という気持ちになる。めしを作るのは、決して楽なことではない。これは、自分で作ってみれば分かる。

 

例えばラーメン。きちんとスープを取ろうと思ったら、かなりの時間と手間がかかる。信用できる店、良い店は、それをきちんとやってる。仕事だから当たり前、と思うかもしれないが、そう簡単なことではない。

 

客に美味いものを提供したいという店の人の情熱をそこに感じると、「やってくれている」という感謝が生まれる。だから、スープまできっちり飲みたくなってしまう。結果、デブまっしぐらなんだけれども。

 

うどんやそばもそうで。自分で鰹節と昆布でだしを取ってみたりすると、スープを残すのが何というか、申し訳ない気持ちになる。せっかくだしを取ってくれたのに!という気持ちに、自然となる。まあ、塩分過多とかは良いじゃないか、この際。

 

そりゃ、明らかに出来合いのタレをお湯で薄めただけ、というスープならば、僕も進んで飲もうとまでは思わないかもしれない(いや、飲むかもしれないけど)。

 

でも、信用できる店で、明らかにスープまでこだわって作ってる場合は、残して帰るのがどうも忍びないというか、もったいないと感じてしまう。

 

美味しいラーメン(に限らないけど)のために、一生懸命仕事をしてくれたんだなあ、と思うと、全て美味しくいただいてこそだよな、と思ったりする。

 

■お金の使い方も変わる

ついでに、そういう信用できる店に行くと、ケチケチしたくなくなる。むろん、無い袖は振れないけれど、ちょっと高いくらいだったら、まあいいかと思う。

 

例えば、同じ100円でも、「惜しい100円」と「惜しくない100円」がある。

 

例えば、コンビニでおにぎりを買う100円は、僕にとってはちょっと惜しい。できれば、コンビニのおにぎりに100円も出したくはないのだけれど、お腹を満たすには仕方がない、という感じ。

 

一方、好きな店に行って、「並」が700円、「上」が800円だとしたら、たぶん「上」を頼む。その100円は、惜しくない。だって、その分良いものを出してくれることは分かっているから。

 

好きな店、良い店とは、信頼関係でつながるような氣がする。この店なら「価格通り、それ以上のものを出してくれる」という信頼感、あるいは安心感を感じさせてくれるのが、僕にとっての良い店だったりする。

 

できるだけ、そういう店で食事をしたいなあと思うし、そういう店を応援したいなと思う。安かったり、便利なのも良いんだけれど、「僕のために美味しい食事を用意してくれたんだ!」と思えるような店でこそ、めしを食べたいなあと思う。

思い込みで考えない人になりたい


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滋賀県竹生島神社シリーズ パート2

 

■前回のあらすじ

そうそう。ステレオタイプで話をする人が苦手、という話だった。そして、自分自身もステレオタイプや思い込みで物事を判断したり、考えてしまいがちだということ。これが前回のあらすじ。

 

なんだよ。前回のブログ、これだけで済むんじゃないか。

 

まあいい。

ともかく。僕は長いこと、「ベジタリアンなんて、何が楽しいんだろうか」と思ってたわけです。人間、肉や魚を食べるのが楽しいし美味しいのだと。

 

で、精進料理なんかで大豆や豆腐を肉や魚っぽく調理するのも、ちゃんちゃらおかしいと思っていて、それなら肉や魚を食べれば良いじゃないか、無理してベジタリアンや精進料理なんて作って無駄なエネルギーを使って、つまんない代替品を食べるなんて無意味だねと思っていたのです。

 

ええ、今にして思えば愚かにも。

 

■肉食は効率が悪い、という話

現時点、僕は別にベジタリアンでもなければヴィーガン主義者でもない(今のところ)。肉も魚も食べるし、小麦粉も食べるから、グルテンフリーでもない。でも、「ちょっと待てよ」と思うことは多い。

 

僕は「家畜が可哀そうだから」という理由で、菜食主義を採ることはできない。なぜなら、菜食主義だって植物の命を奪っていることに違いはないから。

 

むろん、ナッツや果物のように、動物に食べられることを前提にしている(それによって、種子が運ばれたり、受粉したり)ものだけ食べる、という考え方もあるけれど、それもちょっと言い訳っぽいなー、と感じる。

 

ただ、「畜産には必要以上にエネルギーが必要」というのは、確かにそうかもね、と思う。様々な試算があり得ると思うけれど、こちらのサイトによれば、1キロの牛肉を生産するために10キロの穀類が必要だという。10人前の穀類を使って、1人前の牛肉を作るような計算になる。

 

そう考えると、どうして吉〇家や〇屋などは、あんなに安く牛丼を提供できるんだろうか・・・?と不思議に感じる。いや、僕だって牛丼はたまに食べるし、否定するつもりもないのだけれど。

 

大豆ミートは単純に「美味しい」

思い込みで言うと、「肉の代替品なんておいしくない」というのもある。大豆で作ったお肉代わりの食品なんて、どうせ代替品なんだから、美味しいわけがない、と。ところが、これも勝手な思い込みだった。

 

ちゃんと美味しいのである。

 

僕の友人にも、大豆ミートを使った料理を作っている人が数人いる。話を聞くと「肉よりももたれなくて良い」、「味も肉と区別が付かない」という。「もはや代替品というより、これが当たり前」という人もいた。味以外のメリットで言えば「乾物だから、保存が効くから楽」とも。

 

僕も試しに、と思って食べてみたら、これがまあ、普通に肉みたいな食感だし、味わいもある。食べてもみずに「どうせ美味しくない」とは言えない。食べれば、たぶん(ほとんどの人は)美味しい、と思うはずだ。

 

■こういうことって、世の中にたくさんあるんだろうな

何となくのイメージだったり、昔の印象が今も残ってしまっているということが、きっとあるんだろうと思う。

 

ひょっとしたら、昔の大豆ミート(と呼ばれているらしい)は、あまり良い大豆を使っていなかったりして、確かに美味しくなかったのかもしれない。あるいは、今も美味しいものと、美味しくないものがあるのかもしれない。

 

ただ、それを昔1度食べただけの知識で「アレは美味しくない」と決めつけるのは、乱暴だよなと思う。技術は進化する。世の中は変わるし、人もまた変わるわけだ。

 

でも、人は思い込みの呪縛から逃れられないこともある。残念だけど。ただ、そのことを頭に入れておければ、「ああ、今私は思い込みで判断したな」と自覚できる。そういう人に、私はなりたい。

ステレオタイプでモノを言う人が苦手

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滋賀県竹生島神社シリーズ 

 

こないだ、会社近くの「ちばチャン」で昼飯を食っていたところ、斜め前に座ってた若い男二人組の会話が聞こえてきた。

 

話は早速脱線するのだが、私は「ちばチャン」の唐揚げ定食を大変愛好している。

 

この店、要するに飲み屋なのだが、ランチタイムは主菜のみ持ってきてくれて、その他のごはん、お味噌汁、副菜はセルフサービスで取り放題というデブまっしぐらのお店である。

 

しかも、その副菜というのがナスの煮びたしや大根の煮たの、それからレタスやタマネギスライスなどのサラダ類、それに加えてマカロニサラダがあることもあるし、この間は鳥の甘酢あんかけみたいなものまであった。

 

鳥の唐揚げ定食頼んでるのに!!

 

とにかく。その上リーズナブルなお値段なので、ひとりで昼飯、となるとココに来てしまう。

 

■何の話だっけ

私のちばチャン愛はどーでもいい。

 

いや、本題だってどーでもいいと言えば、どーでもいいのだが、それを言うと哀しくなるので黙っとく。

 

そう。こんな会話が聞こえてきたのだ。

 

A:「EXILEって、ヤンキーが聞いてるんでしょ?」
B:「そうかな?」
A:「ヤンキーってEXILE聴いて、ONE PIECE読んでるイメージじゃん?」

 

・・・いや、この会話が聞こえてきたのが、私の元に鳥の唐揚げが届いた後で本当に良かった。そうでなければ、空腹でのイライラも相まって、このAの胸ぐらを掴みかけていたかもしれない。

 

■いやいやいや、ちょっと待て、と

そもそも、僕はEXILEのことをほとんど何も知らない。イカツイ皆さんが歌って踊るグループ、くらいの印象だ。なるほど、ヤンキーっぽい印象を受けるのもわからなくはない。

 

しかし、私が知っている中で、EXILEが好きでヤンキー要素のある人は皆無だ。むしろ、EXILEが好きなのは女性が多い(ヤンキー要素はない)。

 

ONE PIECEにしてもそう。ONE PIECEの主な読者は、実は結構年齢層高めなんじゃないか?と私は見ている。私の中では、ONE PIECEが好きな人は30代に多い印象だ。

 

ただ、この辺も限られたサンプルからの推測で、偏った見方であることは間違いない。

 

が。このA氏のコメントは、もはや推測ですらない。ステレオタイプだ。いや、単なる思い込みと言ってもいい。

 

僕はどーも、ステレオタイプや思い込みで話をする人が苦手らしい。

 

■なぜ、ステレオタイプが苦手なのか

というのも、僕自身ができるだけ傾向を少なからず持っているから、だ。ついつい思い込みや勝手な推測で物事を見て、見誤ってきた経験がある(今もそうかもしれない)。

 

だから、人の思い込みやステレオタイプには鋭く反応してしまう。できるだけ、ステレオタイプで物事を判断しないように、と思うのだけれど、なかなか。ついつい、職業や勤めている会社、職種などで判断してしまうこともある。

 

もちろん、傾向はある。ただ、絶対ではない。そこんところをわきまえないと、物事を見誤る。

 

自戒を込めて、そしてちばチャンの唐揚げをモグモグしながら、そんなことを考えた。

 

思い込みとかステレオタイプについては、実例として書きたいことがあるので、また書く。

わし流映画鑑賞録『ラ・ラ・ランド』

映画

■今回も、盛大にネタバレしますよ。

観る前は正直、期待してなかったわけです。『ラ・ラ・ランド』。

 

予告編を観ても、何となく(オレの苦手な)オトナのラブストーリー!的な感じだし、公開された後の映画評を見て「過去のミュージカル映画へのオマージュが!」とか言われても、オレ、そういうのほとんど観てないもんなぁ、と思ったり。

 

何しろ『ラ・ラ・ランド』て。なんというダサいタイトル、と思ってた。が、このタイトルには実は深い意味があった。これは後で触れます。

 

とにかく、観る前は期待してなかった。「まぁ、評判イイっぽいから」くらいの感じで観た。

 

結果、僕はこの作品を観て、2回泣いた。

 

■しつこいようですが、ネタバレしますんで。

ハリウッドで女優を目指すミアと、ジャズピアニストとして自分の店を持つことを夢見るセバスチャン。その二人が出会い、恋に落ち・・・というのが大筋。

 

単なるラブストーリーとしても観られるし、美しいミュージカルとしても観られる。様々な観方のある映画だなあと思う。

 

ミアは、とにかくオーディションに落ちまくる。セバスチャンは演奏こそ上手いけど、雇われてた店の選曲に従わず、クビになる。とにかく、二人とも上手く行ってない状況で出会う。

 

そして(映画としては当然ながら)徐々に成功への道が開けてくる。

 

そして、ミアに大チャンスのオーディションが訪れる。大作の映画に出演できるかも、というオーディション。「自由に演じて」というオーダーに対して、女優だった叔母さんのことを思い出しながら、ミアが歌う『The fools who dream』という曲が素晴らしい。オレが泣いた第一ポイントがココ。

 

■ちょっと脱線しますね。

「ミュージカルが苦手」という人がよく言う、「なんで急に歌い出すのか」という疑問。僕は「映像を使った比喩表現」だと思うことにしています。

 

その時の心情や感情を歌にして表現する。実際に何が起きてるか、というよりは、そういう氣持ちでいるんだな、という。

 

だから、実際にミアがオーディションで歌ったかどうか、は、どうでもいい(と、私は思っている)。彼女の心境、信条、あるいはもう一歩推し進めてしまえば、監督が言いたいことがここに込められている。それで良いじゃないか、と思う。

 

この作品では、いきなり歌いだす以上に「あり得ない」行動や出来事が多々起こる。それを「こんなことあり得ない!」と観るのか「面白い!」と観るのか。でも、これだけの人が評価してるってことは、そのあたりはクリアしてるのかもね、とも思う。

 

はい。脱線おしまい。

 

■『The fools who dream』

 

www.youtube.com

 

ミア(エマ・“目玉”・ストーン)が歌うこの曲がとても良い。歌詞も曲も歌唱も、歌われるシチュエーションも。

 

ちょっとだけ歌詞を引用しますね。

Here's to the ones who dream
Foolish, as they may seem
Here's to the hearts that ache
Here's to the mess we make

 

(わし流ざっくり翻訳)
「夢を見る人たちに乾杯しましょう。
たとえ、どんなに馬鹿みたいに見えたとしても。
痛む心と、私たちのむちゃくちゃな日々にも、
乾杯しましょう」

 

She told me:
A bit of madness is key
to give us new colors to see
Who knows where it will lead us?
And that’s why they need us,
So bring on the rebels
The ripples from pebbles
The painters, and poets, and plays

 

(わし流ざっくり翻訳)

「彼女(ミアの叔母さんのことね)は言った。

ちょっとした狂気が、私たちの世界に彩りを与えてくれる。

それが私たちをどこに連れていくかは、誰も知らない。

でも、それこそが私たちが求められている理由。

だから、小石が波紋を広げるように、

反逆者たちを舞台に上げるの。

画家や、詩人や、劇作家たちのような(社会に対する?)反逆者を。

 

なお、もっとちゃんとした翻訳があったから、詳しくはこっちを観てもらった方が(笑)。

 

migmemo.net

 

ミアはそれまで、女優を目指してオーディションを受けまくったけど落ちまくって、実は一度実家に帰るんです。そこを、セバスティアンが迎えに来る。「君には絶対才能がある。だから、次のオーディションを受けよう」と。んで、この曲を歌う流れなの。

 

■「Where we are?」という問い

これは、何かを目指して、何かに憧れて、何かを夢見た人ならば泣くよりほかないシーンですよ。真剣に。

 

そして、オーディション後にミアはセバスティアンにこう質問する。

 

「Where we are?」と。字幕ではどうなってたかな、忘れた。その問いに対し、セバスティアンは一旦「公園だよ」と答える。で、もう一度ミアは「where we are?」と問う。

 

なんかこう、この問いが印象的でして。

 

二人が「(人生という道において)どこにいるのか」もそうだし、「(夢の過程において)どこにいるのか」もそうなんじゃないかとか。そして、物理的に「パリか、ハリウッド(ロサンゼルス)か」も含まれてるかもしれない。ひょっとすると、「二人はどこへ行こうとしているのか?」という問いなのかもしれないし。

 

何を目指し、何に価値を置き、どこに住み、誰と暮らし、何をして生きるのか。それら全てをひっくるめた「Where we are?」という問い、なのかなとか。

 

結果、ミアはこのオーディションに合格し、パリで大作映画に出演することになる。セバスティアンはセバスティアンで、ツアーで世界を飛び回る。かくて二人は離れ離れになることを選択する。

 

そう。二人の夢は叶う一方で、二人の距離は離れていくわけだ。「己がどこにいるか」を確認しながら。

 

■ある意味、2つのラストシーン

んで、このあたりからラストへのなだれ込みがすごい。

 

時間は5年後に飛ぶ。ミアは女優として成功し、ハリウッドに戻ってくる。愛する夫と子どももおり、幸せに暮らしている。そして、夫と食事でもしようかと入った店が、何とセバスティアンの店。

 

そして、セバスティアンはミアに気付く。彼の奏でる曲に乗せて、映画はクライマックスを迎える。「あり得たかもしれない現在」、つまり、二人が幸せに結ばれた「アナザーストーリー」を見せる。

 

これがもう、あーた。泣いた。オレが泣いた第二ポイント。現実は「そうではない」のだけれど、実際にあり得たかもしれない「現在」を走馬灯のように見せていく。でも、それはどこまで行っても「そうではない世界」の話。ミアとセバスティアンがどんなに幸せで、温かな家庭を築き、幸せに生きていたとしても、それは「あり得たかもしれない」世界。

 

そうこうして、我々は現実に戻ってくる。ミアは夫と店を出る。セバスティアンは、あたかも「それで良いんだよ」と言わんばかりに微笑んで、次の曲を演奏し始める。

 

いやもう。このエンディングはズルいよ。ズルい。

 

■で、『La La Land』に込められた真意

『ラ・ラ・ランド』を英語で書くと『La La Land』。LA、つまりロサンゼルスのことを言うらしいのです。ただ、何というか、夢見がちな世界を指してる、というか。そんなことを映画評論家の町山智浩さんが紹介していたんですわ。

 

その部分だけ引用します(今回の記事は長いなー)。

 

『ラ・ラ・ランド』というのは『La La Land』と書くんですよ。「LA」っていうのはロサンゼルスのことですよね? だからロサンゼルスのことを別名「ラ・ラ・ランド」とも言うんですね。

(中略)

ただね、これには悪い意味みたいなのがあるんですよ。つまり、ロサンゼルスに住んでいる人たちはみんなこの主人公たちみたいにスターになる夢を見ているんですよ。で、「彼女はラ・ラ・ランドに住んでいるんだ」っていうのはね、「彼女は夢見がちなんだ。現実を見ていないんだ」っていう意味があるんですよ。

 

 

miyearnzzlabo.com

 

つまり、「デートの時に見に行くと良い映画っすよ、ダンナ」的な顔をしてるこの映画ですけども、実は「何者かになりたいと願い、夢見続ける(続けた)人への賛歌」なのですよ!(バンバン←机をたたく音)。

 

もう一度言うけれど、この映画はホントに色々な観方ができる。

 

単に、音楽と映像が楽しい映画、としても観られる。かくいう僕も、この映画を観てしばらく、劇中の音楽を鼻歌で歌ったり、口笛を吹いてたりする自分がいてびっくりしているくらい。

 

そして、恋愛悲劇としても観られる。ああ、なんであの二人は別れなくてはいけなかったの?あたしたちはそんなことないわよね的に、カポーで観るのも良いでしょう。

 

ただ僕は、何度も言うようだけれど、何かに憧れ、何かに夢を見た人たちへの賛歌であり、そういう人たちへの愛を込めた映画だと思う。「アカデミー賞狙いが透けて見える」てな指摘もあるみたいだけど、それはちょっと、さすがに意地悪過ぎやしないかとも思う。意識はしたかもしれないけれど。

 

とにかく。ミュージカルがどうしても嫌いな方には勧めませんが、そうでなければぜひ。

 

特に「ラ・ラ・ランド」の住人だったという自覚がある人は。

わし流映画鑑賞録『サバイバルファミリー』

映画

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これから、いつもの如く映画を見た感想を壮大にネタバレしながら書いていきます。今回の映画は『サバイバルファミリー』です。

 

ネタバレNGの方は、映画を見終わってから、ぜひ。

 

■これは、まぎれもなく僕らの物語。

この映画の評価は、このストーリーが「自分事」として受け取れるか、「他人事」かによって変わるかも、と思う。

 

設定は、突拍子もない。ある日、突然電気が使えなくなる。当然、電気を使う都市生活は大ダメージを受ける。でも、多くの人は「まあ、そのうち復旧するんでしょ」と鷹揚に構えている。ところが、それが数日にわたり・・・。

 

さすがに、こりゃアカンとなった鈴木さん一家。奥さんの実家がある鹿児島へ避難しようとする。電車が止まってるから、自転車で羽田まで向かうものの、当然飛行機も欠航。

 

そして鈴木さん一家は(なんと)自転車で「電気が通っている」という噂のある西へ向かうのだが・・・というお話。

 

■ツッコミどころは確かに多い。

そもそも、発電所や送電線の問題ではなく、いきなり電気が使えなくなる、なんてことは考えにくいし、車は関係ないだろー、とかは思った。

 

でも、重要なのはそこじゃない。たぶんこの監督は、その辺の整合性をとりあえず横に置いといて、「実際、こうなったらどーする?」を突きつけてきたのだろう(この辺は、映画評論家・前田有一さんの指摘で氣付いた。さすが)。

 

■「有り得た過去」、「有り得る未来」

3.11を経験した我々にとって、これは「あり得た過去」であり、「あり得る未来」でもある。

 

3.11では、地震の影響で発電所がストップしたのは福島第一原発だけだった。これはこれで未だに問題が続いているけれども、それでもまぁ、まだラッキーな方だったとも言える。

 

もし、首都圏直下型地震かなにかで送電システムがメッタメタになったなら。そのように見ると、「うわぁ」ってなる。

 

都会に限らず、現代に生きる我々は、意外なほど電気に依存して生きている。「これも?」というようなものも、電気がないとお手上げだ。

 

例えばガスメーターはいまや電気制御だし、水道も電気が止まれば(たぶん)止まる。

 

そういう世界に、僕たちは生きている。

 

しかも、忘れてはいけないのは「状況は、大して変わっていない」ということだ。僕らの生活は相変わらず電気に依存しているし、3.11のようなことが、再び絶対に起こらない、なんてことは、誰にも言えない。残念ながら。

 

■もし、本当に電気が止まったら。

ありとあらゆるインフラが麻痺するし、カネやブランドものなんて、何の意味も持たなくなる。

 

そのことを端的に表すのが、途中で出てくる米屋のエピソード。米の備蓄はある。ただし、水か食糧以外とは交換しない、という米屋のおばちゃん(渡辺えり)。

 

ロレックスを持ってきたお兄さんを「そんなもん、腹の足しにならないでしょ」と一喝する。確かに。

 

機械式腕時計なら動きはするかもしれないが、あらゆるインフラが止まった以上、時間なんて無意味だし、ブランドなんて、それ以上に意味がない。

 

本筋とは関係ないけど、この渡辺えりさんが出番は短いのにキョーレツだった。スゴいね。さすがの存在感。

 

■食事シーンで泣く。

我々はインフラは「ある」ことが「当たり前」と見るけれど、実際には「ありがたい」ことだと氣付くはずだ。

 

電気もガスも水道も、鉄道も飛行機も車も動かない。そんな状況で、どう生きる?まさに「サバイバル」だ。

 

そして、生活に密着した人々の力強さが描かれる。

 

僕はこの映画を見て、食事のシーン(須磨の水族館からの田中さんちのシーン)で泣いた。映画を観て、食糧のシーンで泣いたのは、たぶん初めてだと思う。

 

どんなシーンか。書くか書かないか、迷ったけれど、敢えて書かない。是非、見てほしい。

 

そのくらい、あのシーンは重たかった。

 

■全ては「当たり前」では有り得ない。

僕は、だからといって「全てを棄てて、昔に戻ろう!」とは言わないし、「田舎暮らし最強!」と言うつもりもない。

 

現代を生きる以上、電気が使えた方が便利だし、都会には都会の良さがある。もちろん、田舎には田舎の。

 

都会にいながら、自分と生活を少しだけ密着させる、ということは出来そうな氣がする。例えば、たまには電気を使わない生活をしてみる。キャンプに行くだけでも、普段の生活がどれだけ電気に頼っているかに氣付くはず。

 

エレベーターが動いて、電車が時間通りに来て、つまみをひねれば火が使えて、蛇口を開ければ飲める水が出る。ボタンを押せば風呂が沸き。ちょっと行けばコンビニでおむすびやパンが買え、大阪や九州、北海道までだって、ものの2~3時間もあれば着いてしまう。

 

これらは全て「当たり前」では有り得ない。そのことを突きつけてくる映画でありました。

 

で、結局何が言いたいかっつうと、「『サバイバルファミリー』、面白かったなぁ」ということである。みんな観た方が良いよ。以上!