自分の客は誰か。

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アカデミー賞でどうのこうの

アカデミー賞云々が話題になってますけども。個人的には、オスカーがどうのこうの、にはあんまり興味がない。へー、とは思うし、受賞作には多少興味は持つけれど。

 

もちろん、賞レースの行方をエンターテインメント的に楽しむのはありだと思うけれど、それは作品の評価とは直結しないし、ましてや自分の評価軸とは違って当たり前。

 

いくらアカデミー賞受賞作でも、自分が面白くないと思えば、そこまで。逆に、自分以外、誰一人評価しないようなクソ映画であっても、自分の心にしっかりと刻まれているなら、それはもう「名作」。そう思うことにしている。だから、出来るだけフィルターをかけずに作品に向き合おうと思っています。

 

とは言え、多くの人が「良いよ!」と言ってるものは、自分にとっても「良いもの」の確率が高いから、なるべく見たい、とも思っています。

 

昔は、皆が「良い」というものや、流行ってるものを出来るだけ避ける天の邪鬼体質だったのだけれど、それもなんか違うなぁ、と。何しろ、自分にとって、流行ってても面白いものは面白いし、つまんないものはつまんない。

 

■それは、自分が作る側も同じ。

自分が「面白い」、「こういうことを言いたい」という作品を作ることができたら、それはそれで決着が付いた、と思う。

 

そこにお金がついてくるのは(本当に)ありがたい。これまでは自分が作ったもので賞を頂くなんて機会はなかったけれど、それこそオマケの最たるもの、だと思う。

 

この順番が、長いこと、僕の中でテレコになっていたことに氣がつきました。文学新人賞を受賞して、パンパカパーンと文壇にデビューする。んで、文章を書いてメシを食う。

 

というビジョンを長いこと(若いときから、割と最近まで)持っていたのですが、あ、これ、違うわー、と思った。

 

自分が「面白い!」と自信を持って出せるものさえ作れれば、まずは満足。それが人に面白いと言ってもらえたり、評価してもらえるならば、それは望外の喜びであると。そんな感じが今はする。

 

まー、自己満足で終わっても仕方ないんだけど。まず、自分が楽しめないものは、人だって喜んでくれないでしょ?と思う。

 

■自分の客は誰か

プロは客が喜ぶものを提供しなきゃ、というご意見もあると思う。それもごもっとも。でも、僕はまず最初に自分が最初の客でありたいと思うわけです。

 

「こういうことを書いたらウケるかな」、「こういうネタは読まれるよね」みたいなことも、面白いし、求められることだとは思うけれど、それにしたって、まず自分という上顧客が喜んでくれないと始まらない。そんな氣がしています。

 

それは、このブログも同じ。もちろん、ブログで稼ごう!みたいな考えもなくはない(なくはないのですよ!)けれど、それにしたって、自分がまず読んで、書いて、面白いのが基本。そんな現在地を確認しております。

足さないことの価値  

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■「何も足さない、何も引かない」

これはサントリーウイスキー「山崎」のコピーですが、まあ、これって王道だよね、と思うのです。

 

特に、「足さないこと」の価値。

 

例えば、飲み物を買うとき。子どもの頃は、「出来るだけたくさん入ってる」、「出来るだけ甘い」みたいなことを判断基準にしていました。

 

だから、お茶を買うとか意味が分からなかったし、ましてや水など!水を買うくらいなら、その辺の公園で水を飲めば良いじゃない!と思ってました。

 

しかし、今はすっかり変わりまして。今は、出来るだけ何も入ってないものが良い。最近は水に味が付けてあるヤツとかありますが、個人的にはノーサンキュー。コーヒーも、砂糖やミルクは要らない派です。

 

■「足さない」勇気

「足さない」というのは、結構勇気がいることだと思います。ついつい、何か足したくなる。

 

Webや雑誌のデザインを見ていても、「足さないこと」を徹底するのは難しい。白を基調にして、サッパリしたデザインにできればカッコイイ、とは思いつつも、言いたいことや伝えたいことを積み重ねていくと、それがそうもいかないようで。

 

実は言葉も同じでして。

 

本当に伝えたいことを、スパッと短いセンテンスで表現出来さえすれば、それ以上何も足す必要は、本来はないのです。

 

ところが、そうカンタンには問屋が卸さない。この表現では、こういう風にとられるのでは、こう受け取る人がいるかもしれない、こういう誤解をされると困る・・・てな具合に、色々足したくなる。

 

そうでなくても、伝わるかどうかが心配で、二の句三の句を継いでしまうこともある。

 

■言わなくても伝わるもの

こんな無駄の極致みたいなブログを書いておいて何を言うか、と思われるかもしれませんが、本当に言いたいことが伝わるのならば、言葉は必要ないのかもしれませぬ。

 

例えば、映画。色々あった二人の男女が、ただ見つめ合う。それだけでも、伝わるものはあるのです。

 

他にもきっとあるのでしょうが、最近、僕がそれを感じたのは『ローグ・ワン』のエンディングシーン。あの先、どうなるかは(2つの意味で)分かっている。でも、敢えてお互い何も言わない。

 

脚本家の立場から言えば、「何も言わせない」。でも、受け手には様々なことが伝わる。

 

表現する上では、これが最上なのかもなぁ、と思ったり。なのに、自分が何かをする時には、ついつい盛ったり、付け加えたり。

 

■てなことを考えたきっかけは

実は、白湯を飲み始めたから、だったりします。パイタンではありません(某方から拝借したネタ)。

 

白湯。要は単なるお湯ですが、コレがまあ、コレっていう味は当然ながら、ない。でも、味の違いは確実にある。家にある良い水を沸かしたのと、会社で飲む水道水を沸かしたヤツでは、味が違う。

 

そして、白湯を飲み慣れてくると、コーヒーやお茶の味の感じ方も変わる。たぶん、「何が足されているか」に敏感になるのではないか?というのが、僕の予想なんですけども。

 

ともかく。出来るだけ言葉も、他のいろいろなことも研ぎ澄ませて、足さずに伝える極意を体得したいなぁと思う今日この頃。

 

と、これだけの分量を書いといて言うことじゃないのだけれど。

わし流映画鑑賞録「沈黙ーsilenceー」

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■映画観てきましたんで。

今回の映画評は「沈黙ーsilenceー」です。マーティン・スコセッシ監督作品ですね。

 

chinmoku.jp

 

前にも書いたかもしれませんが、僕は決して映画通ではないです。別に映画の見方を勉強したこともないし。まあ、言わばフツーのおじさんです。

 

逆に、フツーのおじさんの映画評なんて読む機会がないはずなので、ぜひご参考になさってください(ほんとかよ)。

 

遠藤周作の小説を映画化

さて。この作品は遠藤周作原作の小説をスコセッシ監督が映画化したもの。キリスト教弾圧が厳しかった、鎖国中の長崎が舞台です。

 

ごく簡単にストーリーを紹介しますと、ポルトガルから日本に渡ったある敬虔な司祭が、棄教したらしい。この噂を聞いた若き司祭二人が、師匠の後を追って日本に渡る。そこで二人が見たものは・・・的な内容です。

 

こういう話だけに、キリスト教と日本の関係、神とは何か、宗教とは何か、救いとは?というようなことがテーマになります。

 

あ、ここからは壮大にネタバレしていきますので、見る予定の方はご承知おきを。

 

■ともかく静か。

この映画を見た人の多くが指摘するのが、「音楽」の少なさ。ほんとに、ほとんど音楽らしきものが流れない。テーマがテーマなので、パンパカパーンみたいな音楽が鳴るのもおかしいのですが、それにしても。

 

印象に残っている「音楽」といえば、殉教していく隠れキリシタン(モキチ)が歌う賛美歌くらいなもの。

 

しかし、その静けさというか、音楽のなさがまた、映画に緊張感をもたらしており。

 

■そしてエグい。

あのー、こんなエグい話でしたっけ?というくらい、エグい表現が頻出する。まあ、キリシタンを拷問にかけたりするシーンがあるわけで、当然そうなんですけども。にしてもエグい。絵的にもだけど、精神的にも、かなり来る。

 

前出のモキチが死ぬシーン、あるいはジュアン(洗礼名ね)やガルペ(こちらは司祭の後を追ってきた教え子の一人)が死ぬシーンも、精神的にかなりダメージが大きい。

 

ちょっとびっくりする描写も多いので、そういうのがニガテな方は要注意かも。

 

■それよりなにより、キチジロー。

でも、この映画を観た人はたぶん、この人について言及せざるを得ない、というくらいのキーパーソン、それがキチジロー。

 

この人、観れば分かるけど、まあ、何というか。

 

他の隠れキリシタンたちが信仰を棄てず、勇敢に(と言おうか何と言うか)殉教していく一方で、キチジローは何度も「踏み絵」(行為の方は「絵踏み」というらしいですね)をする。

 

挙げ句の果てには、同行していた若き司祭を幕府のお奉行様に密告し、売り飛ばす(司祭がいることを密告すると、銀300枚もらえたらしいですよ)。

 

で、もうキリスト教とは縁を切るのかと思いきや、司祭の後をつけ回して「パードレ(司祭様)!コンヒサン(告白)を!」と、罪の告白をして救われようとする。

 

■救いとは何か。

いやもう、観ててほんとに、コイツスゴいなと。劇中、キチジローは何度も何度も人や神さまを裏切る。かといって完全に信仰を棄てるわけでもない。そして、何度も何度も同じように、救いを求め続ける。

 

でもよ、と映画を見終わってしばらくした後、僕は思ったのです。

 

誰がキチジローを笑えるのかと。

 

彼を臆病者、卑怯者と言うのは簡単。でも、ああいう過酷なシチュエーションに立たされたとき、自分はキチジローのように振る舞うことはない、と言い切れるか。モキチのごとく、敢然と恐怖や死に立ち向かえると、自信を持って言えるのか。

 

 

■人間弱いし、流されるし。

人間弱いし、流されることもある。強く生きたいと思っても、ままならないこともある。同じ失敗や過ちを、何度も繰り返すこともある。

 

そういう人のことを「ダメなやつ」、「弱いヤツ」と切り捨てるのは簡単。でも、それで本当に良いのか?と。それは、現代社会でも同じこと。

 

何でもかんでも許す(あるいは赦す)ことが良いことなのか。でも、弱い人に手を差し伸べ、共に歩むことも必要なんじゃないのか。

 

ひょっとしたら、そんなことは神さまマターで、我々人間は「コイツはダメ、使えない」と切り捨てて良い、という意見もあるかもしれない。

 

でも、どうだろうか。僕個人としては、そういう弱い人、ある意味ナサケナイ人にも寄り添える人でありたい。何故ならば。僕自身がそういう弱く、ナサケナイ人だから。実際にできてるかどうかは、置いておくとしても。

 

そして、「救い」とは何か。罪を告白すれば救われるのか?果たして、キチジローは救われたのか。とかとか、色々考えてしまいました。

 

宗教のことはよくわからないので、そのあたりについては言及しませんが、とにかく、重たい映画でした。

 

一つだけ言えることは、デートで見に行かない方が良い、ということ。長いし。観終わった後、会話に困ること受け合いです。

僕とブログと言葉について


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■ニューヨークに来ています。

HAHAHA。どーも。こちらは朝です。いやー、来るまではてっきりトランプさんのあれやこれやで話題は持ちきりかと思いましたが、さすがニューヨーカー。切り替えが早いというか、もはやそんな話題はほとんど出ませんね。

 

嘘です。おばんです。

 

いや、なんか冒頭の写真が(私の思う)ニューヨークっぽかったので、つい嘘をつきました。悪気はありません。反省はしてません。

 

■何のために書くのか。

ここ最近、「このブログは何のために書いてるのか」を考えることがありまして。

 

はて、何でかな・・・と思いつつ、とりあえず感じたのは「自分が楽しいから」。僕は別にこのブログでマーケティングをしたいわけではないし、何かを売りたいわけでもない。

 

強いて言えば、「このおじさんに、何かコラムでも依頼してみようか」というオーダーがあればうれしいな、とは思うけれど。

 

あ、流れなんで書いときますが、原稿執筆、お受けします。聞き書き(インタビューからの原稿執筆)、ブログ代筆、コラムなどなど、お問い合わせくださいな(宣伝)。

 

宣伝もしたし、今日のブログはここまで・・・というわけにも行かんか。

 

あと、自分なりにアタマの中身を取り出して、確認する作業、という意味合いもあります。

 

■ブログを書いててうれしいとき

これはいくつかあって。まず、「自分が書きたいことを過不足なく書けたとき。僕はこのブログを、文章鍛錬の場とも考えているので、そういう意味でこれはうれしい。

 

次に、自分が「この人に伝われ」と思って書いたことが、ドンズバでその人に届いたと分かったとき。

 

これも当然ながら、うれしい。ブログへのコメントや会ったときの言葉で、あ、この人にあの記事は伝わったなと、僕が思うこともあれば、向こうから言ってきてくれることもある。

 

これは、僕にとってブログを続ける最大のモチベーションに近い。

 

最後に、特に誰に当てた訳でもない、あるいは、そのひとに当てた訳ではない文が、思わぬ誰かに届いたとき、ということもある。

 

これは正直、「届いた!」と分かることもあれば、分からないこともある。ただ、そういう実感を得ることは確かにある。本当にうれしい。

 

■言葉は刃物のようなもの

自分が書いた言葉が、予想外のところで、予想外の人に届いたり、響いたりする。コレは本当に不思議だし、うれしいことだ。

 

だからこそ、言葉は刃物のようなものだ、とも思うことにしている。何かを切ったり、削ったり、適切に使えば有用だけれど、振り回すと危ない。人や自分を傷付けることになりかねない。

 

そんなことを考えています。

スマホは便利、という話(当たり前)

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■デジタルデトックスプチ

先日、約2日間のプチデジタルデトックスを敢行した。ふむ。「敢行した」と書くと、まるでモノスゴイことをしたように見えるけれど、そんなことはない。

 

 

という、実にゆるゆるなデトックスである。本当ならばスマホを置いていけば良いのだろうけど、写真だけは撮りたかったので、こういうルールにしてみた。

 

■その状態でどこに行くか

この状態で、土地勘がほぼないに等しい関西に行ってきた。もちろん、ある程度は事前に調べておいたから、結果的にさほど困ることはなかったのだけれど。

 

やってみて思ったのは「スマホって超便利」という、至極当たり前の結論だった。

 

例えば、この時間にA地点を出て、B駅からC駅に向かった場合、C駅のそばにあるD博物館の公開時間に間に合うか?何てことを調べたいとする。

 

スマホがあればちょいちょいで済むが、デジデト(略)の状態だと、まずA地点からB駅までの所要時間を考え、B駅からC駅に向かう電車と、時刻表を眺め、D博物館の公開時間をパンフか何かで調べるか、電話して聞くしかない。

 

■旅行先でも何とかなった

しかし、短期間の滞在だったとは言え、スマホがなくてもなんとかなった(たまには使ったけど)というのは、僕にとっては収穫だった。

 

もちろん、人と会う約束がなかったり、分刻みのスケジュールにしてたわけではなかったから、何とかなったのはあるけれど。

 

ただ、今後はスマホの利用率を落としていきたいな、ということも感じた。

 

■それはなぜかっちゅうと

スマホに頼ると、スマホと自分だけで世界が完結するからである。小さな話だけれど、充電があまりないから、地図アプリは厳しい。となれば、観光案内所で地図をもらうことから始める。

 

観光案内所でも「地図下さい」からコミュニケーションが生まれる。一言、二言だけど。

 

そして、地図を見て、移動経路を考える。「すみません、ここに行きたいんですけど、どのバスに乗れば良いですか?」と、ここでもコミュニケーションが生じる。

 

そういう様々なことを、僕は面倒臭がって、避けてきたのだ。

 

スマホは便利。でも、そこからは生まれ得ないものもある。そんなことを感じたデジタルデトックスでありました。

 

敵対心は劣等感の裏返し

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photo by chisako abe

 

 

 

もう、本記事は「これな」で終わっても良いくらい、核心を突いている。

 

ただ、小池先生に楯突く訳ではないのだが、この3つ、違いがイマイチよく分からない。

 

妬み嫉み(ねたみそねみ)

他人を羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情。「嫉妬」と同義。「妬み」と「嫉み」はいずれも羨望と憎しみの入り混じった感情を表す。「妬み」は羨ましく口惜しい、腹立たしいといった意味合いが若干強い。「嫉み」は羨ましくて憎い、呪わしいといった意味合いが若干強い

出典:日本語表現辞典

 もういっちょ。

やっかみ

(主に関東地方で)うらやみ。ねたみ。「やっかみ半分でうわさする」

出典:デジタル大辞泉

 

なるほど。

 

■まあ、要するに

何か自分にないもの、自分が敵わないなと思っているものを相手が持っていて(あるいは、自分がそう感じていて)、 それを素直に認められない時に、こういう感情が発露するんだろう。

 

冒頭、小池先生も言ってたね。「敵対心は劣等感の裏返し」。なるほどなるほど。

 

こういうフレーズにピンときたり、何か思うところがあったり、なおのことブログまで書こうというのだから、僕の中にこういう感情があるんだろう、と思う。

 

■持っていたいか、いたくないかで言えば

こんな感情を持っていても良いことはないし、自己嫌悪に陥るだけなわけで、持っていたくはない。

 

ただ、すぐにパンパカパーンと手放せるかと言えば、そこもまた難しい。何しろ、「反射」だから。

 

何か、自分にはない才能や実力を見たときに、妬みや嫉みを感じるのは、瞬間的な心の反応、反射であって、これを止めるのはなかなか難しい。

 

ただ、それが出てきたときに「また出てきたね」と受け止めることはできるだろう。そして、それを消化(あるいは消火か昇華か)することもできる、はずである。

 

それには、もう少し時間と修行が必要なようだ。とりあえず今日のところは、氣付いた分前進したとしよう。

記憶力がよろしくないことからの諸々

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■おばんです。

Mr.鳥アタマを自称するくらいには、記憶力が良くない。昨日の昼飯がなんだったか、覚えてるかどうか怪しい。

 

それならまだしも、昼飯に唐揚げ定食を食べたのに、夜また唐揚げを食べようとするくらいには記憶力に乏しい(もしくは、唐揚げが大好き)。

 

だから、子どもの頃の思い出とか、面白エピソードなんかを話せる人を見ると感心する。「面白いから」というよりは(もちろんそれもあるけれど)、「良く覚えてるなぁ」という感心である。

 

■思い出せない~ことば~か~り~ある~の~

昔住んでたアパートの場所はさすがに覚えてるけど、何階の何号室だったかが思い出せない。

 

高校ですら、クラスメイトに会って、名前やあだ名をサッと思い出せる自信がない。

 

実際、ちょっと前に小・中学校の同級生と飲んだとき、「オレ、同じ中学校だっけ?」と言ってたら三年の時同じクラスだった、ということすらある。

 

ときどき子どもの頃の思い出を探ってみるのだけれど、正直な話、うまく思い出せない。小さい頃に好きだったオモチャだとか、こんなことあったよねー的なこととか。

 

昔好きだった女の子の名前すら思い出せなかった時には、さすがに愕然とした。まあ良いけど。

 

■感情の起伏が乏しい

家人に「何か良いこととか、嬉しいことがあって、嬉しくて人に話したくてしょうがない、なんてことある?」と聞かれたことがある。そういう、喜びを爆発させることがないようにみえるらしい。

 

実際、ない。当然ながら、僕にだって嬉しいことはあるし、喜ぶこともある。でも、「聞いて聞いて、こんな良いことがあったんだー!ウホー」的な表現をすることは、ほぼない。

 

少なくとも、ウホーに関しては過去一度もない。

 

いや、嬉しいし、喜んでるんだけど、それをウワーッと外に出す、ということがない。

 

と。ここまで来て「オイオイ、さっきの記憶力がない話とこの話、どう繋がんねん」と思ってる人がいるはず。これが僕の中では、バッチリ繋がるんである。

 

■記憶と感情は結び付いている

「記憶」は「感情」と強く結び付いている、と言われている。喜怒哀楽に関わる記憶は、強く残る。

 

逆もまた真なり、ではないかと僕は読んでいる。感情の起伏が小さいと、記憶にもあまり残らない。要するに、僕の記憶力の無さは、「感情が大きく動いていない」ことに起因するんじゃないのか?

 

僕は別に特別冷酷なわけではないと(自分では)思う。映画を観れば人並みに泣くし、ジャイアンの傍若無人ぶりには憤怒する(大げさ)。

 

でも確かに、感情の波が大きいか、激しいかと言われると、そうでもないかもなぁ、と思う。


■じゃあ、どーすんの?という話

もちろん、その瞬間瞬間は、いろいろな感情をキチンと感じているのである。

 

ああ、楽しいなとか、嬉しいなとか、イヤだなとか、悲しいなとか。ただ、それがどれほどの深さか、というと・・・自分ではよく分からない。

 

ただまあ、どうやっても他人にはなれないし、今から「感情をディープに感じるトレーニングをします」とか言うと、かなりキケンな感じがする(色々な意味で)。

 

こういう性格、もしくは脳回路(?)のおかげで、記憶力は悪いけれど、負の感情が長く続いてしまうことも少ない。怒りや悲しみも、そんなに長続きはしない方だ。

 

だから、これはこれでまあ、いいところもあるよなぁ、と思う。

 

逆に「感情の起伏が激しくて」という人を、僕は羨ましく思う。あなたはそれだけ人生を深く、豊かに味わえているではないですか!と言いたい。

 

特に、子どもたちに言いたいやね。笑って泣いて怒って悲しがって寂しくなって不機嫌になってまた笑うのが、人間だ。

 

どうかね?