人からの注目を集める人の特徴(トランプさんネタ再び)

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photo by chisako abe

 

■おばんです。

日経ビジネスオンラインは、ついに「トランプ・ウォッチ」なる連載特集をスタートさせた。

 

以前から、日本はアメリカの51番目の州だとか、戦後ずっと植民地だった、という揶揄のような自虐のようでその通りのようなことを言われてきた。だから、アメリカ大統領の動向(特に就任直後)を追っかけるのは分かる(宗主国様の国家元首だもんね)。

 

でも、8年前もこんな感じだったっけなー?という感じがしていて。

 

とりあえず、選挙中に福井県小浜市が乗っかりに行ってた(小浜市オバマ氏を応援しています!的な)のは覚えてるんだけど、大統領の一挙手一投足(と言っても過言ではあるまい)に、ここまで注目してたかなー。

 

と、思って何となく思ったのが、「予測不能な人ほど、注目を集める」ということ。

 

■それがどういうことかと言えば

この例えが適切かはわからないんだけど。

 

電車に乗ってて、フツーに本を読んでるダンディーな紳士に注目が集まるなんてことは、ないですよね。その人がズボンをはいてない、とかなら別だけど。

 

一方、独り言をブツブツ、ずーっと言ってる人とか、酔っ払って虚空に向けて何か言ってる人とか、あるいは、黙ってたとしても、金髪モヒカンのパンクスが車内にいたりすると、氣になるし、注目するでしょ。

 

今のトランプさんへの(僕の目には異常とも思えるほどの)注目度は、よーするにそういうことなんじゃないかと。

 

■悪いと言ってるわけじゃない

これは悪いことばかりじゃない。僕はこれを、どちらかと言えばポジティブに捉えている。

 

注目を集めるということは、それだけ人の目を惹きつけられるということだし、ある意味では発信力もある、ということ。

 

トランプさんの場合、意図的にやってるような印象も受けるし。わざとヒール(悪役)というか、「良識派」が眉をひそめるようなことを言ったりやったり、前例のないことを(わざと)やってみたりすることで、注目を集め、支持を受ける。

 

日常生活にもいますよね。何か言ったりやったりしたことが、自然と注目を集める人。


それはやっぱり、「先の読めなさ」に起因するのかなぁ、と思う。この人は次に何をするのか、何を言うのか?みたいな、予測不能な感じ。それが、ある意味期待感にもなって、人の注目を集めるのかなぁと。

 

■話は結局自分に向かう

自覚する限り、僕にはこの「予測不能感」はない。良識があって、常識の範囲内の言動だから、安心感はあるけれど、驚きはない。だから、衆目を集めることは、今まではあまりなかった。

 

まあ、それはそれで良いんだけど。

 

ただ、パンパカパーンと人の注目を集めてしまう人に憧れることもある。けども、それを本当の本当にやりたいか?と言われると、ちょっと分からない。

 

適材適所って言葉もあることだし、これはこれで良いのかなー、とも思いつつ。とりあえずは、予測可能な範囲で、驚かれもせず、ボチボチ安定してやっていこう・・・と、トランプさんを見ながら思うのでした。

 

自信がない(ことに氣が付いた)

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Photo by Chisako Abe

 

■おばんです。

要するに、自信がないのです。こう書くと、誰が、と思われるかもしれませんが、当ブログでここまではっきりと言い切った場合、私のことを指しているわけです。

 

ここ最近、「ああ、私は自分に自信がないのだな」ということを感じることがあります。

 

というか、前々から氣付いてはいたのだと思うけれども、ここにきて、どうもそこに直面するというか、そのことに向き合わざるを得ない状況になってきたのだな、という感じがしています。

 

自信がないから、自分の外に軸を置きたくなるし、人からの評価を(必要以上に)氣にするようになる。

 

あるいは自分と他人を比べて、何となく優劣をつけてみたり、その結果、自分はダメだなあと思ったりする。

 

もちろん、いやいや自分、そんなことはないでっせ、意外とイケてまっせと持ち上げたりはするんだけど、それにしても、だ。

 

要するに、今の自分を有り体に言うと、あまり(というか、割と)良い状態ではない。

 

■で、どうしましょうかね?と。

とはいえ、このように「自分が今、良い状態ではないのだな」と分かるということは、それはそれでプラスだと捉えております。

 

要するに、それは自分を客観的に見られているということだから。たぶん。

 

とはいえ、自分に自信がない状態なのに、人から「自信持ちなよ!」と言われても困る。というか、持ちようがない。だから、自分で何とかするしか手段はない。

 

で、どうしましょうかね、と思っている。むしろ、どういう手を打とうか、決めかねている。違うな。どういう手があるのか、ヒントを探している。

 

■ヒント(1)自分との対峙

とりあえず、自分に自信を持つためには、自分をきちんと見つめて、自分が何をしたいのかを把握したい。

 

そのためには現時点で何ができていて、何ができていないのか、何が必要で、何が不必要なのかを見極めたい。

 

必要なのに「そんなもん、要らん」と突っぱねているものはないか。

 

反対に、不必要なのに「必要だ」と思い込んでるものはないか。それを考えてみること、かなあと思っている。

 

あとは、人と距離を置くことかなあとも。

 

僕はどーも、(これは鶏が先か、卵が先かに近い話なんだけど)人と自分を比べてしまう傾向にある。

 

それが自信のなさに起因するものなのか、あるいは、それをすることで自信を失ってしまうのかは、よくわからない。

 

ただ、自分でもやりたくはないわけだ。人と自分を比較するなんてことは。

 

だとするならば、人と適度に距離を取って、自分と対峙する時間を増やすことが必要なんじゃなかろうか、ということも感じる。

 

人といるのは決して嫌いではないけれども、自分とじっくりと向き合うためには、どうしても一人になる時間が必要なんじゃないか、とも思う。

 

■ヒント(2)旅に出ること。

旅行に出かける、というのも良いかもしれない。旅先では基本的に一人だし、自分がいる場所を変えることで、考えることや閃くことも変わってくるはずで。

 

うし。まずは旅行に出かけよう。そして、人と距離を置こう。その上で、自分としっかり対峙して、自分の自信の源を探しに行こう。よしよし、そうしよう。

 

とまあ、自分の考えをまとめるためにブログを利用するという、良いんだか悪いんだかわからない作業なのですが、まあいいか(笑)。

 

「醸された」ものの発露としての表現

 
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photo by chisako abe

 

 

■おばんです。

端から見ていて、どーしてあの人はああいう(良い意味で)発想ができるのか、ああいうものが生み出せるのか、と不思議に思うことがあります。

 

例えば、コピーライティング。取り立てて特別な言葉を使っているわけでもないのに、何やら味わい深かったり、心に響いたりする。

 

あるいは、歌詞。これも、似たようなことをテーマにしているのに、スッと入ってくるものと、そうでもないものとがある。

 

僕らは幸せなことに文字を読むことができ、書くことができます。だから、ああいうコピーや歌詞なんかも、カンタンにスススーと書けるんじゃないか?と思う。

 

でも、そうは問屋が卸さない。

 

これはなぜかと。才能?センス?まあ、それもあるとは思うけども。

 

■その人の中から「醸されて」生まれるもの

何にしろ、「発酵する」あるいは「醸す」みたいなことが行われているんだろうなー、と思う。

 

出てきた瞬間だけ見ていると、何か、単なる思いつきのように見えるけれど、実はその前には、それまでに色んなものを見、いろんな話を聞き、色んなことを感じて積み重ねてきたものがあって、それが醸されて、何らかの形になって世に出る。

 

絵でもそう、書でもそうだろう。その人が話す言葉や、行動も、同じかもしれない。

 

人が生み出す全ての何かは、その人がその人なりに積み重ねてきたものの結晶だと言えると思う。

 

裏を返せば、単なる「思いつき」や「借りてきたアイデア」には、それがない。だから、薄く感じる。

 

■とかなんとか言うものの、だ

正直な話、ひょっとしたら僕が「スゴい!!」と思ってるものの中にも、単にどこかのアイデアや発想を借りてきただけのものもあるかもしれない。僕の眼が、必ずしも正しいとは思ってはいない。

 

ただ、自分としては、できる限り自分の中で熟成し、醸したものを言葉としても、文章としても、行動としても、出していきたいなぁと思う。

 

むろん、どこかから借りてこないと、にっちもさっちもどーしょうもないこともあるだろうけど。

 

なお、当ブログは(今のところ)私の中にあるものを醸して、ひねり出してお送りしております。

引いて生きる、ということ


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 photo by chisako abe

 

 

■おばんです。

駅や街角で、人とぶつかりそうになる。あるいは、肩と肩がぶつかる。はたまた、エレベーターを同じタイミングで降りそうになる。

 

ありますねー、こういうこと。

 

こんなとき、「すみません」と、スッと引ける人でありたいなぁと思うのです。別にこっちが100%悪いわけでもなく、はたまた、向こうが100%悪いわけでもない。

 

それなら、こっちが先に引けば良い話で。

 

■人と衝突することもある。

あ、これは物理的な話ではなく、ケンカとか言い合い、みたいな意味でだがね。

 

むろん、お互いに自分の意見が正しいと思っているから衝突するわけで、お互いに同じ意見なら何の問題も起こらない、はずだ。

 

だいたい、決定的な意見の相違や食い違いがある人とは、衝突するほど仲良くならないんじゃないか、と思う。そもそも、見てる世界が違いすぎれば、もはや衝突すらしない。

 

で、衝突するってことは、たいていちょっとした食い違いに端を発していたりする。何てことはない言葉の言い回しや、表現が引っかかっただけ、だったりする。

 

そんなときも、こちらがまず折れて出れば良い、と思う。自分の正しさを打ち出して生きるよりも、ぶつかった時には折れて受け流せば良い。

 

それが簡単にできれば苦労しねーよ、とは思いつつ。

 

■とは、言うものの、だ。

自分の意見を常に曲げて生きよう、とは思わない。自分の信条や信念に合わないことは、やらなくても良いと思う。

 

ただ、「絶対に自分が正しい」とは考えないようにしたい。「正しさ」を追いかけ続けると、しんどくなる。

 

まー、アタマでは分かってるんですがねぇ・・・という感じなんだけど。ともかく、そういうマインドだけは持ち続けていきたい。

 

 

色々小さく始めてみる提案

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photo by chisako abe
 

 

■おばんです。

よく「小さく始める」みたいなことを言う。

 

最近、これは結構何にでも当てはまるんじゃないか?と最近思っている。

 

何かを始めたり、変えようとするには、そこそこのエネルギーがいる。

 

そこで、小さく始めてみるわけだ。

 

起業はわかりやすい。「週末起業」みたいな言葉が一時期流行ったように、最初から大きく丁か半かに張るよりは、小さく始めて様子を見るのがやりやすい。

 

新しい事業なんかも、そうかもしれない。パンパカパーンと花火を打ち上げた方が良いケースもあるだろうけど、小さく始めてみるというのは、僕の考えと合っている。

 

「小商い」という言葉が良いなあと最近思っている。大きく稼ぐ必要はなくて、ちょっと黒字で、人に喜んでもらえる仕事をボチボチやる。これは結構良い感じがする。あくまで、個人的には。

 

むろん「バーンと投資して、ドーンと稼ぐ。コレが男の本懐じゃぁあ」的、『俺の空』もしくは『サラリーマン金太郎』はたまた『ミナミの帝王』的な世界観が好きな人もいるだろうから、そこはそれで良いと思う。

 

(注・前述の三作品ですが、なんといずれも未読なので、あくまでイメージです。あしからず)

 

■大きなテーマを小さく始める

冒頭、小さく始めてみることは、何にでも当てはまるんじゃないかと書いた。

 

例えば、「世界平和」。そう。テーマが大きすぎる。世界を見渡せば、「平和」な状態とは言い難い国や地域がたくさんある。もちろん、何を以て「平和」というかは、とても難しいということも頭に置きつつ。

 

ここからは、とてもデリケートな話をする。誤解されても仕方ないなと思いつつ、僕の意見を書く。

 

例えば、「世界平和のために!!」と肩肘張って、今日はドコソコの恵まれない子供たちの支援、明日はソコココの難民の支援と、世界を飛び回り続けるのも現実的ではない。

 

その問題を解決するために○○しないと!!○○すべき!!というのも、うん。その氣持ちはとても尊いし、わかるけど、僕の感覚とはちょっと違う。

 

今ある問題に目を向ける、その解決に取り組むのも、とても素晴らしいことだとは思うけど。


■小さな平和維持活動

そうでなくても、「自分の身の回りを平和にすること」あるいは「平和に保つこと」から始めてみたらどうか、と思った。

 

この地球に人間が誕生して以来、結構長いこと、我々は争いを続けてきた。そりゃ、一足飛びに平和な世界に行くには、必要なエネルギーが大き過ぎる。

 

かと言って「平和なんて無理じゃんねー」と諦めてしまうのも、ちょっと違う。だから、小さく始めてみるわけだ。

 

全世界を平和にする前に、身の回りから平和にする。「もう平和だよ」というのなら、その平和を保つ。

 

まずは家庭から。職場。地域。それが広がっていけば、ひょっとしたら、いつか世界が平和になる、かもしれない。

 

まあ、そうは上手く進まないんだけどさ。家庭の平和も、職場の平和も(笑)。

 

でも、取り組む価値はあると思っている。

他人のせいにしちゃわないこと

 
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photo by chisako abe

 

 

■おばんです。

毎度おなじみ(でもないか)、日経ビジネスオンラインからのネタ。

 

トランプ大統領に関する記事は色々と出てますが、個人的にはこれが秀逸でした。僕が漠然と感じていたことが、ほぼ網羅されている。

 

business.nikkeibp.co.jp

 

元記事を読んで頂ければ一番良いのですが、会員登録とかなんとかめんどくさいこと多いので、ここでは印象深いフレーズを引用します。

 

片山:「なかなかこれ以上は成長しない経済を受け入れて、苦しい思いもしてもらうけれど、最大多数がそれなりに人間らしく生きられるように工夫の限りを尽くし、社会主義的施策も辞さない」と言える政治家が、今の先進資本主義国には必要だし、それを支持できる「新しい価値観」を有する国民も登場しないといけないと、私は思うのです。

 

もういっちょ。

 

――そうか、「高度成長できる」と言い続けてきたからこそ、国民の失望が高まってしまって、ついにはトランプを生んだということですか。

片山:ええ。その結果、「時代が1930年代に回帰してきた」と感じています。本気でそう思います。考えても見て下さい。ブロック化、保護主義の流れや「米国第一」の大元には「分割しても成長できるんだ」という幻想があるでしょう。

 

■僕は共産主義者でも社会主義者でもないけれど

ただ、もう「経済成長」の幻想には立ち向かった方が良いんじゃないの?とは思っている。

 

何のための「経済成長」なのか。ホントに経済成長しないとアカンのか。今までのやり方を見直して、人の生活や個々人の人生に基盤を置いた、緩やかな経済活動はあり得ないのか。むしろ、そういうことを考えるべき時代じゃねーの?と思っている。

 

いつまでも できると思うな 経済成長(字余り)だと。

 

■実は、ここからが本題。

前置きで長くなった。これでオシマイでも良いかと思ったけど、半分以上が引用なので、もう少し書く。

 

この記事の中で「誰かのせいにすると、理由なく、問題も解決してないのに、なぜかすっきりする」という話も出た。

 

トランプさんは国内の問題をメキシコやイスラム教徒のせいにして支持を得ている。ちなみに、ヒトラー共産党とユダヤ人のせいにしてたし、毛沢東なんかも似たような手法を採ってた、と記事にはある。

 

確かに、誰かのせいにすると訳もなくスカッとすることはある。しかも一見、「確かに、そりゃ他人のせいだわなぁ」と思うこともあるから、余計やっかいだったりする。

 

今日は家でゆっくりしようと思ってたのに、上司に残業を頼まれて、帰宅が遅くなった。ヤレヤレ、何だよあのタコ課長、こんな時に仕事押し付けやがって・・・。

 

なーんてなこと。ここで「オレが残業してるのは、あのタコ課長のせいだ!」と言ってしまえば、仕事の山は片付かないけれど、多分多少スッキリする。

 

じゃあ、ほんとに課長が悪いのかと言えば、そうとも言えない。自分が多古課長の仕事を先回りしてカバーすることもできたかもしれないし、バックレて帰ることもできたかもしれない。残業することを選んだのは、自分だ。

 

つまり、究極のところ、他人のせいで起こることなんか一つもない。

 

でも、やってしまうんだよねー。他人や環境のせいにしちゃうの。どーしても。氣をつけたい。

 

■リアクションは、自分の中にある

仏教では、物事はただそこに「ある」だけで、そこから生まれるアレコレは、全て自分が作っている、と説く(確か)。

 

仕事がうまく行かないのも、家族との関係が悪いのも、借金を抱えたのも、恋人とうまく行かないのも、雪が降ってるのも、電車の中のクソガキの皆様方がうるせーのも、砂糖壷を落っことして、砂糖を床にばらまいたのも。

 

そのことは、ただ「ある」だけ。どうとらえるかは、全て自分次第だ。

 

でも、人は、何かと他人や環境のせいにしてしまう。その方が「カンタンにスッキリできる」から。

 

他人や環境のせいにしてる自分を見つけたら、しめたものだ。そのことに氣付いたということは、学びがある。そこから、自分が出来ることに立ち戻れば良い。

 

それにしても、電車の中のクソガキの皆様方がうるさくてだな・・・(え?)。

世界史を学ぼう(唐突に)


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photo by chisako abe 

 

■教養としての世界史

という書籍があることを知って、そう言えば私は世界史についてはホントに何も知らないよなぁ、と思って、ちょっと勉強(と言っても、本を読むくらいですけど)してみたのです。

 

ココから先は、ホントに私の無知がバレるというか、「そんなことも知らんのかい」という感じなのですが、まあ良いです。

 

とりま、世界史をパッと通読するような本を読んで、色々感じたのですが、まずは「ヨーロッパ人、ムチャクチャしてきたな」ということと、「西洋の文化って、割と歴史浅いのな」ということ。

 

■ヨーロッパ人のムチャクチャぶり

ヨーロッパ人のムチャクチャに関しては、枚挙に暇がない。あっちゃこっちゃに攻め込んでみたり、アフリカから南米に労働力として奴隷を連れて来たり、その奴隷を売買したり。中国にアヘンを売り込んでおいて、中国が「もうアヘン買わない!」と言ったらボコボコにしたりもするし。

 

もちろん、当時の彼らには彼らなりの理屈があって、彼らなりの正義でやってたんだとは思うけれど、それにしてもムチャクチャだなぁ、と現代の僕は思うわけです。

 

■意外に浅いヨーロッパの歴史

西洋文化については、僕なんかは「脱亜入欧」みたいなスローガンもあったし(古いよ)、ヨーロッパは常に最先端!みたいなイメージがあるけれど、歴史を紐解くと、そうでもない時期も長い。というか、ヨーロッパが文化・文明の最先端になったのは、割と最近の話だ(長い歴史から見ればね)。

 

それまでは、中国が文化の最先端だったり、西安が世界最大の都市だったり、アラブ(イスラム)文化圏の方が、科学的に発展してた時期もある、らしい。いやー、そういうことは知らなかったなぁ・・・と思う。ただ、僕の無知さがバレているだけの話ですが。

 

■「開いた」から発展した

ではなぜ、西洋、ヨーロッパが近年についてなって発展したか。それは「開いたから」だと。スゲー簡単に言うと。

 

そもそも、ヨーロッパ大陸には様々な民族や国があって、否が応でも交流、交渉が必要になる。そして、何となれば戦になる。そして、大航海時代で新しい文化や大陸を探し始める。新しいモノを取り入れていく。それで、どんどん発展していったと。

 

なるほど。そしてこれは、人間単体にも言えるかもなー、と思った。

 

かつての中国や鎖国中の日本のように、外からの影響をシャットアウトすれば、中は意外と安全、平和に暮らせるかもしれない。

 

でも、それは良くて現状維持、下手をすると衰退への道をたどることが多い。

 

どっちが良い・悪いではないのだけれど。

 

■近代以前の文化に興味が

結果、僕が興味を持ったのは「西洋化される前に、各地、各大陸にあった(はずの)文明や文化」だったりする。

 

外的要因で滅んだものもあれば、自然消滅したものもあるとは思うけれど、かつては各地に、その土地に根付いた文化・文明があったはずで。そういうのに興味が湧いた。

 

アステカ文明マヤ文明、かつての中国。あるいはアメリカ大陸のネイティヴ・アメリカンたちの文化。

 

実は日本にも、アイヌ文化という立派な土着文化があった。こういうものに俄然興味が湧いてきている。

 

それを言うなら、日本の文化もそうですよね。そういう意味では、日本再発見も面白いかもなあ。